みちのくの山野草

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チェロの学習は極めて難しい

2021-05-27 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 基本的には日記を書く習慣のない宮澤賢治だったと私は思うのだが、少なくとも昭和2年には日記をつけ始めた。期するところがこの年を迎えてあったからではなかろうか。実際、その元日のメモ欄には
   本年中にセロ一週一頁
   オルガン一週一課
 
という「一年の計」も書き記されており、前年末に購入したと思われるセロ(チェロ)の学習などの決意を賢治は新たにしている。

 しかしそこには現実的な問題が否応なく起こっていたはずである。というのは、自身もセロの独習経験があるという横田庄一郎氏が次のように指摘しているからである。
 後に本職のチェリストになる井上頼豊(一九一一-一九九六)は、「上野」(東京音楽学校、現在の東京芸術大学音楽部)をめざし、先生について猛練習していた。…投稿者略…賢治と井上は同じ本で練習していたことになる。また井上は「ウェルナーは一巻から二巻までいくのに、もちろん今は教え方がちがいますけど、私のところのよくできる生徒でも一年近くかかりますね」と話している。
 チェロを専門に学ぶ生徒にしてからが、独習の賢治の苦労がしのばれるではないか。
             <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)118pより>
よくできる生徒が先生について学んでさえもかくの如きだったのだ。
 となれば、鈴木バイオリン製の六号、最高級品のチェロを買い、一年の計も立て、毎週一頁ずつチェロの学習と練習を続けていった賢治であっても、なかなかセロが上達しないこと<*1>はほどなく気付いたであろう。
 それは、チェリストの西内荘一も、『嬉遊曲、鳴りやまず』の中でが著者中丸美繪の取材に次のように答えているからだ。
 西内は元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリストである。…投稿者略…福島県相馬出身の西内は、中学生のころまったく我流でチェロを始めた。桐朋学園大学に入学したいと考えて、高校一年生のとき夏期講習に参加した。
 「桐朋を受験するいわば田舎の人のための下準備みたいなものでした。…投稿者略…講習会が終わって一週間後に斎藤先生から手紙が来た。上京しろ、音感はとてもいいのでこのままやめるのはもったいない。ただし、チェロはやめた方がいい、コントラバスなら入れるかもしれない、と。…投稿者略…
 翌年一年遅れて桐朋高校音楽科に入学しました。チェロがやりたかったのですが、先生は、僕の生徒から落ちこぼれを出すわけにはいかない、ハイレベルなことまで教えたいのだから、小さいころからの生徒でないととらない、とおっしゃった。それで一度は諦めたんですが、頭に岩崎さんの演奏がこびりついて……。そのうちチェロを教えてくれるまで僕は学校に行かないとストライキをしてしまったんです。一年留年しました。朝から晩までどこででもチェロばかり弾いていて、まわりの先輩たちが見兼ねて、斉藤先生に伝えてくれて、そんなにやりたいんだったら一年間やってみろ、それでだめだったら田舎に帰るか、コントラバスをおとなしくやれといわれて。一年後に、この斉藤が決断をくだすから、大学生の倉田澄子さんについて習えといわれたのが始まりです。一年後十八歳で弾いた曲は『音楽教室』の生徒なら小学生で弾けるような曲でした。それでやっと先生のレッスンが受けらられるようになったわけです。灰皿投げられたり、譜面台蹴飛ばされたりしながら……。遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉が通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。…投稿者略…」
             <『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)155p~>
主席チェリストであった西内にしてしかりである。まして三十歳を過ぎた賢治の場合にはなおさら並大抵のことではなかったであろう。

 だから、もしかするとこの西内と同様に、賢治も精神的におかしくなったということも十分にあり得たのではなかろうか。というのは、私は
 〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
検証できたわけだが、この「チェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した」はまさにそれであり、かつての「賢治年譜」には必ず記載されていた
    昭和三年(1928) 三十三歳
    一月、……この頃より漸次身體衰弱す。

はそのせいであった、ということが否定できなくなった。
 それは、賢治書簡246〔(1928年)十二月 あて先不明〕下書に、
昨日はご懇なお手紙を戴きましてまことに辱けなく存じます。当地御在住中は何かと失礼ばかり申し上げ殊にも私退職の際その他に折角のご厚志に背きましたこと一再ならずいつもお申し訳なく存じて居ります。
この度の自ら招いた病気に就てもいろいろとご心配下さいまして何とお礼の申しあげやうもございません。何分神経性の突発的な病状でございましたためこの八月までもこの冬は越せないものと覚悟いた……
                  <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
とあるが、「自ら招いた病気に就ても…(略)…何分神経性の突発的な病状」と賢治が伝えていたこの病状はそのことを示唆していたのかもしれないからでもある。

 それにしても、非専門家の私でさえもこの〈仮説2〉が定立できて、その検証もできたというのに、賢治学界では今までこのことをなぜ等閑視してきたのか不思議だ。それどころか、それに関わる証言を誰かが改竄していた節もあるというのにだ。
 ということは、結果的には何も得ることがなかった3ヶ月間のチェロの猛勉強は「聖人・君子」の賢治には全くふさわしくない、と誰かが判断したせいだったのだろうか。さりとて、そのようなせいでないこともまたほぼ自明だから、説得力は乏しいしいか……な。

<*1:投稿者註> 澤里武治も藤原嘉藤治も、賢治のチェロの腕前は未熟だったと証言してる。
 ちなみに、横田庄一郎氏は次のようなことなどを『チェロと宮沢賢治』で述べている。
(1)  澤里武治の場合
 そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。
 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンとのばして、「それは、なかなかなものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてはどうでしたか、と板谷さんが問いかけたのに対しては、「いや、それはちょっと無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里はひそめて打ち明けた。「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」
             <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)112pより>
そして
(2) 藤原嘉藤治の場合
 親友の藤原嘉藤治にいわせると、賢治はチェロのほかにオルガンもやっていたのだが、「しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりもまだ初歩の段階という感じでした」(『宮沢賢治』第五号の思い出対談、一九八五年)ということになる。
              <同116pより>

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