みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』

2021-04-22 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、初出の『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」に、つまり一次情報にこれで立ち返れたのだが、もっと重要な資料があった。実は『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(昭和19年3月8日付)が存在し<*1>ていて、その冒頭の1p~3pにこの「澤里武治氏聞書」に相当することが書かれているからである。つまり、この「関『随聞』二一五頁の記述」の真の一次情報は、
⑸『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(昭和19年3月8日付、1p~3p)
である、と言える。
 そしてその実際は下掲のとおり。
【『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』の1p】

【 〃 2p】

【 〃 3p】

            〈関登久也著『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
 そこで、この時の上京・滞京に関する部分を文字に起こすと下記のようになっている。 
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫(ママ)村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。

 そしてこれを元にして『續 宮澤賢治素描』が出版されたわけだが、同書所収の「澤里武治氏聞書」の当該部分は下掲のとおり。


  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
             〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)、60p~〉
 もちろん、『原稿ノート』とその内容は基本的には違わない。

 ところが、「沢里武治氏聞書」に相当するものが載っているものを時系列に従って並べると下掲のように、
⑸『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(昭和19年3月8日付、1p~3p)
⑷「澤里武治氏聞書」:『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年2月5日発行、60p~)
⑶「セロ㈠、㈡」:『宮澤賢治物語』(関登久也著、『岩手日報』、昭和31年2月22日~23日連載)
           <関登久也没           昭和32年2月15日 >
⑵「沢里武治氏からきいた話」:『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行、217p~)
⑴「沢里武治氏聞書」:『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年2月20日発行、125p~)
となるのだが、関登久也が没した後の「聞書」の内容は、⑵においては意味不明の奇妙な書き換えがおこなわれているし、その後の⑴もまた、⑵の奇妙な書き換え問題には触れもせずに、⑵の内容を書き変えている(これらのことについては後程また触れるが)のだった。そこで私は、石井洋二郎氏の「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」という「訓え」に習って自分で検証してみることの必要性と重要さを改めて認識させられた次第だ。
 なお、現時点で特に確認しておきたいことは、上掲の⑸と⑷のいずれからも、次の2点、
(ア) 「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」というように、頭に「確か」を付けているから、澤里武治はこの時の上京の時期は「和二年十一月の頃だつた」ということに、かなりの確信があったであろうこと。
(イ) 賢治は、三ヶ月間の火の炎えるやうなはげしいチェロの勉強のせいで遂に病気になってしまって、帰花したこと。
が導かれるということである。

<*1:投稿者註> 私がなぜこの一次情報〝『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』〟を見ることができたのかというと、私の恩師の一人が関登久也の長男と友人であり、その関わりで私もその長男に何度かお目にかかったことがあり、その際に、『原稿ノート』の存在を教えて貰えたからである。そこで、その方から許可をいただき、『日本現代詩歌文学館』に申請して閲覧できたのだった。

 続きへ
前へ 
 〝「一寸の虫」ではありますが〟の目次へ
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宝の場所(4/20、ミズバショウ) | トップ | 宝の場所(4/20、フッキソウ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

なぜ等閑視?」カテゴリの最新記事