みちのくの山野草

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「羅須地人協会時代」の詩創作数の推移から

2021-05-08 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 そしてまた、あの『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」における緒言の信憑性が高いということを傍証してくれるものに、こんなものもある。

 それは、下掲のような「羅須地人協会時代」の詩の創作数の推移である。
【 「羅須地人協会時代」(下根子桜時代)の詩の創作】

       <『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』を基にカウント>

 さて、ここからは具体的には何が見えてくるか。真っ先に目に付くのが大正15年4月である。この月は全く詩を詠んでいない。そして次が同年12月と翌年の昭和2年1月である。この2ヶ月間も同様に賢治は全く詩を詠んでいない。考えてみれば、前者については賢治が下根子桜に移り住んだばかりの月だから時間的に余裕がなくて詠めなかったと、また後者については、12月の場合は殆ど滞京していたし、1月の場合は例の10日おきの講義等で多忙だったから詠めなかったということでそれぞれいずれも説明が付く。どうやら賢治は忙しいときには詩を詠まない傾向がありそうだ。
 ところが逆に、昭和2年の3月~8月の詩の創作数は極端に多くなっていることも特徴的である。これは、賢治の羅須地人協会の活動が次第に停滞していったのと対極的な動きを見せていると私には見える。つまり、この3月~8月の間は楽団活動を全くしなくなり、定期的に行われてきた講義も次第に先細りになっていったので、そのことによって生ずる心の隙間を埋めようとしているかの如くに賢治は旺盛に詩を詠んだように見る。それこそ「農民詩」(というよりは「農事詩」と言えばいいのだろうか)などを。
 そういえば、3月になって一気に創作数が急増しているが、この3月といえば松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪ねて来たのだが、その初対面の卒業を間近に控えた盛岡高等農林の若者に「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治が強く熱く迫った月であるという。そして同年の夏頃といえば、その松田がほぼ出来上がった「農村劇」の脚本を携えて山形の新庄から再び指導を受けに来たのが8月8日であった。
 あるいはまた同じくその夏頃といえば、労農党稗貫支部の実質的な支部長川村尚三が賢治から下根子桜に呼ばれたりした頃でもあるし、その年の夏から秋にかけては川村が『国家と革命』を教え、賢治は土壌学を教えるという交換授業を一定期間行ったり(『岩手史学研究N0.50』(岩手史学会)220p~)していた頃だ。この頃の賢治は精神的昂揚期にあったと言えそうだ。

 ところが前掲の図表から明らかなように、昭和2年の場合9月になると創作数は一気に激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇の詩すら詠まれていない。一体そこにはどんな変化が賢治には起こっていたのだろうか。
 まず、9月に入って突如詩の創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまった原因は、大正15年の12月と同様にそれこそ上京していたがためということだってあり得る。ちなみに、この昭和2年9月の「2篇」といえば「藤根禁酒会へ贈る」と「華麗樹種品評会」のことのようだが、かつての殆どの「賢治年譜」には次のようにもう1篇の詩が載っていて、
となっている。だから、9月に入って突如創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまったのはこの9月に賢治はやはり上京していたからであるとすれば説明が付く。ちょうど前年の12月に上京していた時がそうであったように。

 そしてそれに続く、昭和3年3月までの詩の創作の空白期間は、あの澤里の証言(『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」)、
  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
            〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)、60p~〉
の中の「三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強」のせいで、賢治には詩を創作するだけの心の余裕がなかったからだということで説明が付く。
 端的に言えば、この詩の創作数の推移が、とりわけ昭和2年11月~昭和3年1月までの間の詩の創作数がゼロであったこともまた、『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の「そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました」という証言などの信憑性が高いということを傍証してくれている。

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