みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

昭和二年上京の際の原資は?

2021-05-25 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、〝入沢康夫氏からの支持と慫慂〟で私は、
 宮澤賢治は、
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三か月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
というように「賢治年譜」は修訂されねばならないはずだ。
と主張したし、この主張については入沢康夫氏からの支持も得た。
 となると、この時の約三か月の滞在費用を賢治はどのようにして工面したのだろうか。

 たとえば、大正15年12月の約一ヶ月の滞京の際は、上京直前に「おせり(「持寄競売」)」をしたり、当時一緒に暮らしていた千葉恭に高級蓄音器売却を売りに行かせたりして、その費用にしたという証言もある。のみならず、滞京中には父政次郎200円もの大金を無心をし、助けて貰った<*1>。
 ところが、この昭和2年11月頃の上京に際しては、そんなことがあったという証言等はない。まして、「宮澤賢治物語(49)」において、
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが
と澤里は証言しているから、みぞれの夜ににこっそりと上京を決行したということが否定できないから、父からの援助があったとは考えにくい。
 その上、横田庄一郎氏によれば、
 羅須地人協会のきびしくなっていく生活が続いて、賢治は一九二八(昭三)年夏に病に倒れ、実家に戻った。このときになって初めて、父親政次郎は賢治がチェロを持っていることを知った。佐藤泰平・立教女学院大学教授が賢治の弟清六さんから聞いた話である。
             <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)85pより>
ということだから、なおさらに考えにくい。

 ところが、賢治はその頃になんと五百二十円もの大金を懐にしていたので、これがその約三か月の滞京費用の原資になったということは十分にあり得る。
 たまたま『新校本年譜』(筑摩書房)を眺めていたならば
六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
            <「新校本年譜」(筑摩書房)314pより>
とあり、その註釈によればこれは平成11年11月1日付岩手日報の記事に依るものだということを知った。
 その記事を実際に見てみると、その内容は次のとおり。
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
 文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝術研究ノ為メ」と記す。
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
 県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」
             <平成11年11月1日付『岩手日報』23面より>
 まさか下根子桜時代に賢治が五百二十円もの大金を懐にしていたであろう時があったなどということは、今まで予想だにしていなかった。ところがこれだけのお金があれば話は違う。もしかするとこの大金が懐に入ったことが、清貧・粗食とはかけ離れた、吃驚するような大金を必要とする行動に結びついたのではなかろうかと想像できた。
 そこで想像を逞しくすれば、以下のようなことが言えないだろうか。
昭和2年元日、一年の計「本年内セロ一週一頁」を立てて一生懸命独習してきたチェロだが、一向に上手くならない。やはり、東京でチェロの指導者について学ぶしかないのか、と次第に思い詰めるようになっていった頃の賢治に吉報が舞い込んだ。以前に申請していた「一時恩給(退職金)」大金五百二十円がやっと支給されるという。一年前の12月の約一ヶ月弱の滞京に際しては、父政次郎に大部金銭的な援助をしてもらっているからそれと似たようなことを再びすることは流石に気がひける。しかしこれだけの大金があれば、長期間滞京しながら、チェロの指導者に就いて本格的にチェロを学べる。せっかちな性向のある賢治だから矢も楯もたまらず、早速行動に移した。
 なお、賢治のせっかちな性向から逆に推測すれば、この大金が手に入ったのはそれこそ昭和2年の11月頃だったという可能性が大である。

 つまり、昭和2年11月頃からの約三か月の滞京費用の原資は、花巻農学校の退職金520円であった、ということが十分に考えられる。

<*1:投稿者註> 次の書簡より示唆される。
〔書簡222〕〔12月15日付〕政次郎宛
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます
〔書簡223〕〔12月20日前後〕政次郎宛
次に重ねて厚かましくは候へ共費用の件小林氏出花の節何卒二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候 農学校贈品の儀は私も誠に困惑仕候へ共校長白藤氏の前例も有之止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送致候


 続きへ
前へ 
 〝「一寸の虫」ではありますが〟の目次へ
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 胡四王山(5/22、ノジシャ) | トップ | 胡四王山(5/22、白い花) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

なぜ等閑視?」カテゴリの最新記事