みちのくの山野草

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「大正15年12月2日」の定説の修訂が必要

2021-05-03 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、定立した
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
は検証できたし、このことに関しては拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』『本統の賢治と本当の露』で公にしたし、Web上でも公開した。しかもその後、誰からもこの仮説に対する反例は突きつけられていないから、いよいよもって、この〈仮説2〉は検証されたという確信を私が持つことができた。となれば、この〈仮説2〉は、今後反例が提示されない限りという限定付きの「真実」となる。これが「仮説検証型研究」の威力でもあり、方法論としても一般的なものであるはずだ。したがって、もしかするとこの〈仮説2〉は、それこそそのうち定説になるかもしれない。

 となれば、一方の「現定説」、
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
はどうなるか。まさか、大正15年12月と、その約1年後の11月頃の2回にわたって、共に「セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る」ということがあったわけではなかろう。
 それは前回同様、当時の賢治年譜(大正15年11月~昭和2年2月)

を見てみれば、「大正15年12月2日に上京した」賢治が3ヶ月間も滞京することは、「分身の術」でも使えない限り不可能であることは誰の目からも明らかだからである。つまり、この「現定説」には「3ヶ月間」という反例があるということである。そしてもちろん、「現定説」と雖も所詮仮説の一つなのだから、反例が一個あるだけで即棄却されることは当然である。
 もう少し説明を付け加えると、「現定説」の典拠は何かというと、『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』は「関『随聞』二一五頁の記述」だと言っているわけだが、この「関『随聞』二一五頁の記述」の中身は先の投稿〝関『随聞』二一五頁の記述〟で明らかにしたように、『續 宮澤賢治素描』所収の次の「澤里武治氏聞書」、
  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
             〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)、60p~〉
のことだ。
 よって、『同第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』は、
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と言っているわけだから、それは、
 *65 『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と書きかえられる。
 となれば、仮に『同第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』の言うとおりに、この時の上京が「大正一五年」であったとしても、『同第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』はこの「澤里武治氏聞書」の中の、「少なくとも三ヶ月は滯京する」とか「三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました」というように二度も証言に登場する「三ヶ月」はもちろん無視できないことは当然だ。
 しかしながらこの、「三ヶ月」は残念ながら、上掲の〝当時の賢治年譜(大正15年11月~昭和2年2月)〟は当て嵌められない。もし当て嵌められるとしたならば、この時期賢治は東京にも居たし同時に花巻にも居たということになってしまうからだ。つまり、典拠としていたはずの「関『随聞』二一五頁の記述」自身が、反例となる「三ヶ月」を突きつけている、というとんでもない自家撞着を起こしているのである。

 当然、現定説
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
は修訂されねばならない。

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