みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「澤里武治氏聞書」新聞連載の場合は

2021-04-24 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 では今度は、〝⑶「セロ㈠、㈡」:『宮澤賢治物語』(関登久也著、『岩手日報』、昭和31年2月22日~23日連載)〟についてである。つまり、『岩手日報』新聞に連載された『宮澤賢治物語』の場合に、「澤里武治氏聞書」の中身はどのようになっているのだろうか、それを今回は調べてみたい。

 まずは、昭和31年2月22日付『岩手日報』に載ったのが「セロ㈠」であり、それは下掲のとおり。
【資料1 「宮澤賢治物語(49) セロ㈠」】

  宮澤賢治物語(49)
    セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(ママ)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。
 その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
 汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
 滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…投稿者略…
            <昭和31年2月22日付『岩手日報』>

 では次は、昭和31年2月23日付『岩手日報』に載った「セロ㈡」であり、それは下掲のとおり。
【資料2 「宮澤賢治物語(50) ㈡」(抜粋)】

宮澤賢治物語(50)
  セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日付になっておるものです。
 手紙の中にセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。。…投稿者略…
             <昭和31年2月23日付『岩手日報』>

 さて、関登久也は、あの「澤里武治氏聞書」を元にして、それを『岩手日報』に「宮澤賢治物語 セロ㈠、セロ㈡」と題して連載していたということになる。それは、この連載の内容は基本的には、
のいずれの内容とも殆ど矛盾しないことからも窺える。
 ただし、際立って違っていいることがある。それは、「出だし」の違いであり、
   ⑸や⑷では、「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます
であったのが、
   『岩手日報』の新聞連載では、「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
となっていて、
   (イ)「確か」→(ロ)「どう考えても
と変化していることである。さて、ではこの違いの意味するところは何か?

 先にも述べたとおり前者(イ)の表現の場合には、
   澤里武治はこの時の上京の時期は「昭和二年十一月の頃だつた」ということに、かなりの確信があったであろうこと。
が導かれる。ところが後者(ロ)の表現の場合になると、
   それは「昭和二年の十一月ころ」以外ではあり得ないと澤里武治は限りなく認識していたこと。
が導かれる。となれば、「この違い」は逆に、澤里武治からすれば、
 みぞれの降る寒い日、セロを持って上京する賢治をひとり見送ったのはどう考えても昭和2年の11月頃だった、としか考えられない。
ということを私に教えてくれる。
 だから私からすれば、澤里自身は「どう考えても」それは昭和2年の11月頃であるとの強い確信があるのに、どういう訳か目の前に提示された「宮澤賢治年譜」には昭和2年の賢治の上京はないことになっていることに怪訝そうにしている、そんな気の毒な澤里の戸惑いがありありと目に浮かぶ。それは、大正15年12月であれば澤里武治は花巻農学校の2年生、昭和2年の11月頃でれば同じく同校の3年生であり、そのいずれの年であったかということは、普通はあまり迷うことなく決められるはずだからだ。まして、澤里武治は賢治が大好きだったのだからなおさらにだ。
 にもかかわらず、あのように、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、いわば超法規的な一言で、年次を「大正15年」に書き変えているわけである。他人の証言をその典拠も明示せずに書き変えるという、私からすれば信じられないことが堂々と行われているのである。

 そしてまた、気になることがもう一つある。
 というのは、前回の【表1  「宮澤賢治年譜」リスト】を御覧いただければお判りのように、その⑴~⑹においては全てに昭和2年の賢治の上京が記されている訳だが、前掲したように、澤里武治は「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」と証言している以上、この新聞連載時に澤里が元にしなければならなかったは、もしかする当時の「宮澤賢治年譜」ではなくて、まだ世に知られていなかった、どちらかというと現通説と似たような年譜であった、ということにでもなるのではなかろうかということが、だ。

 続きへ
前へ 
 〝「一寸の虫」ではありますが〟の目次へ
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鉛(4/18、カタクリ) | トップ | 鉛(4/18、オトメエンゴサク) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

なぜ等閑視?」カテゴリの最新記事