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《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》
甚次郎と戦意高揚・戦争協力
前回は〝賢治と戦意高揚・戦争協力〟ということを少しく考えてみたが、このようなことを甚次郎の場合について今回は考えてみたい。具体的にはまず、『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協、平成4年)によって、このことに関しての安藤玉治の見方を知ることにしたい。
同書には、次のようなことなどが述べられていた。
① 宮沢賢治の教えを守って小作人となった松田甚次郎の「生活報告」が『土に叫ぶ』として出版されるや、たちまち大反響を呼び、期せずして松田は〝時の人〟となっていく。だが松田は、
「おれは百姓だ」
とひたすら農耕にいそしむ。村塾では塾生と寝食を共にする研鑽の日々が続く。昼は農作業につとめ、夜は執筆活動に精魂を傾け、冬期寸暇を見つけては東奔西走、農村講演行脚の日々であった。(2p)
② 松田が死んで、すでに50年の歳月が流れた<*1>。その間いろいろな人が、いろいろなところで、松田の追想や回想の文を書きそして語っている。
なかには、「時流にのり、国策におもねた」とか、「戦争協力者となった松田の存在が、人々の脳裡から痛みをともなって消えていく」という評価がある。
けれども、生前彼に接し、彼を知る人たち誰もが「それは違う。松田はそんな人ではなかった」と、強く訴えずにいられない。(2p~)
③ 翌(昭和)三年は、松田が茨城県の友部の加藤完治をたよって、日本国民高等学校に入学した(65p)
④ 松田は昭和三年の一年間をここで過ごした。以後の松田の行動を見る限り、加藤(完治)校長の影響は大きかった。…(投稿者略)…
農村の救済という使命を自己に課し、共働による私塾での農村青年の教育という方法にも加藤の影響が見られよう。(92p)
⑤ 後で満蒙開拓青少年義勇軍を送り出す拠点となった日本国民高等学校も(93p)
⑥ 「開塾の趣意」で松田は「更に次三男の青年を満鮮の曠野に耕作できる拓殖訓練を授け」と加藤の言葉そのままのようなことも述べたが、彼の村塾はついに一貫してその道は選ばなかった。(96p)
⑦ 昭和初期の農山漁村経済更正運動の切り札として塾風教育が登場し、強力な農民錬成が行われた時代、「最上共働村塾」も当然その流れの中にあった。その中で、加藤完治の日本国民高等学校をはじめ、大方の塾風教育は国家主義的性格を強めていき、侵略戦争に加担するようになっていく。だが、松田の最上共働村塾だけはちがっていた。これは多くの塾生たちの証言するところでもある。(96p)
⑧ 著書の出版によって一躍有名になった松田に対して、地元の一部の人の中には、松田はジャーナリズムにのった有名人となり、もはやや地域には遊離する存在となってしまった。(ママ)と批判的な人もいた。
また松田とともに「山形賢治の会」の創立や運営をともにした同志的な人々の中にも、彼松田を、思いあがりとか、時流にのり、国策におもね虚名を流したという人もいた。(166p)
⑨ 農業恐慌下にある農村の救済運動として、「農山漁村経済更正運動」が一九三二(昭和七)年から政府の施策として実施され、その更正運動の中軸は産業組合が担い、運動の根底に農本主義思想があったことは確かである。松田にもそれは強烈にあった。…(投稿者略)…
さらに、産業組合―農事実行組合の組織化を通じて官僚統制を容易にし、総力戦体制への地ならしが進んだことも事実である。(168p)
「おれは百姓だ」
とひたすら農耕にいそしむ。村塾では塾生と寝食を共にする研鑽の日々が続く。昼は農作業につとめ、夜は執筆活動に精魂を傾け、冬期寸暇を見つけては東奔西走、農村講演行脚の日々であった。(2p)
② 松田が死んで、すでに50年の歳月が流れた<*1>。その間いろいろな人が、いろいろなところで、松田の追想や回想の文を書きそして語っている。
なかには、「時流にのり、国策におもねた」とか、「戦争協力者となった松田の存在が、人々の脳裡から痛みをともなって消えていく」という評価がある。
けれども、生前彼に接し、彼を知る人たち誰もが「それは違う。松田はそんな人ではなかった」と、強く訴えずにいられない。(2p~)
③ 翌(昭和)三年は、松田が茨城県の友部の加藤完治をたよって、日本国民高等学校に入学した(65p)
④ 松田は昭和三年の一年間をここで過ごした。以後の松田の行動を見る限り、加藤(完治)校長の影響は大きかった。…(投稿者略)…
農村の救済という使命を自己に課し、共働による私塾での農村青年の教育という方法にも加藤の影響が見られよう。(92p)
⑤ 後で満蒙開拓青少年義勇軍を送り出す拠点となった日本国民高等学校も(93p)
⑥ 「開塾の趣意」で松田は「更に次三男の青年を満鮮の曠野に耕作できる拓殖訓練を授け」と加藤の言葉そのままのようなことも述べたが、彼の村塾はついに一貫してその道は選ばなかった。(96p)
⑦ 昭和初期の農山漁村経済更正運動の切り札として塾風教育が登場し、強力な農民錬成が行われた時代、「最上共働村塾」も当然その流れの中にあった。その中で、加藤完治の日本国民高等学校をはじめ、大方の塾風教育は国家主義的性格を強めていき、侵略戦争に加担するようになっていく。だが、松田の最上共働村塾だけはちがっていた。これは多くの塾生たちの証言するところでもある。(96p)
⑧ 著書の出版によって一躍有名になった松田に対して、地元の一部の人の中には、松田はジャーナリズムにのった有名人となり、もはやや地域には遊離する存在となってしまった。(ママ)と批判的な人もいた。
また松田とともに「山形賢治の会」の創立や運営をともにした同志的な人々の中にも、彼松田を、思いあがりとか、時流にのり、国策におもね虚名を流したという人もいた。(166p)
⑨ 農業恐慌下にある農村の救済運動として、「農山漁村経済更正運動」が一九三二(昭和七)年から政府の施策として実施され、その更正運動の中軸は産業組合が担い、運動の根底に農本主義思想があったことは確かである。松田にもそれは強烈にあった。…(投稿者略)…
さらに、産業組合―農事実行組合の組織化を通じて官僚統制を容易にし、総力戦体制への地ならしが進んだことも事実である。(168p)
そこでこれらと、先の〝松田甚次郎の評価(南雲道雄)〟を併せて判断すると、
松田甚次郎の「最上共働村塾」の活動は根底に農本主義思想があり、第二次世界大戦下での国家総力戦体制への地ならしに等に利用された。…………★
と言える、と私は判断できた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book_mov.gif)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
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〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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