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賢治と戦意高揚・戦争協力

2019-03-20 18:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 賢治と戦意高揚・戦争協力
 ところで、そもそも「農本主義」の定義は何か。「農本主義」を扱った著作は少なからずあるが、内包的定義をしているものは殆ど見つからず、その多くは外延的なそれであった。
 そこで、「精選版 日本国語大辞典の解説」を見てみたならば、
【農本主義】〘名〙 農業や農村生活を立国の基礎としようとする主義、方針。近世末、封建社会が崩れ始める時期に反商業主義・反近代の立場から主張され始め、資本制社会にはいってからも、農村恐慌に際してしばしば超国家主義的イデオロギーとして機能した。日本では特に国粋主義と結びつく傾向が強かった。
と内包的な定義してあったので、これならば少しだけは私にもわかりそうだ。

 そこでまず思い出したのが、昭和2年2月1日付『岩手日報』のあの記事、
 花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる
である。特に、「地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で」は、上掲の定義の「農業や農村生活を立国の基礎としようとする主義、方針。近世末、封建社会が崩れ始める時期に反商業主義・反近代の立場」を彷彿とさせる。
 そして同時に思い出したのが、吉本隆明のある座談会でのあの発言、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉
の「日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけです」である。
 したがって、以上の事柄から、
    賢治の羅須地人協会での活動は少なくとも「農本主義的」な側面があった。…………① 
ということは否定できない。

 また一方で小倉豊文は、
 各地に「宮沢賢治の会」(地方によって名称異なる)の生まれたのは早くからであるが、詩人・文学者としてよりも第二次世界大戦敗戦までの日本の小学校では必ず「修身」の教材になり、校庭に必ずその銅像があった二宮金次郎の如く、農業・農民の方面から神格化が著しかった。これは賢治が農学校教師であり、農村の技術指導者であったが故ばかりではなく、前述したように当時の日本政府が満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。そして、その中心材料が賢治の詩「雨ニモマケズ」であって、それが島崎藤村の「千曲川古城のほとり……」と並んで現代詩の代表として漢訳せられ、「北國農謡」と題せられたのは、一九四一(昭和十六)年だったのである(北京大学教授銭稲孫訳、北京近代科学図書館編)。日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。
<『雪渡り 弘前・宮沢賢治研究会誌』(宮城一男編、弘前・宮沢賢治研究会)51p~より>
と述べ、特に「満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。そして、その中心材料が賢治の詩「雨ニモマケズ」であって」と、歴社学者である彼が断定していることは軽視できない。
 あるいはまた、昭和19年9月20日に東京女子大学で行われた「今日の心がまえ」という講演で、講師の谷川徹三は、
 「雨ニモマケズ」の精神、この精神をもしわれわれが本当に身に附けることができたならば、これに越した今日の心がまえはないと私は思っています。今日の事態は、ともすると人を昂奮させます。しかし昂奮には今日への意味はないのであります。われわれは何か異常なことを一挙にしてなしたい、というような望みに今日ともすると駆られがちであります。しかし今の日本に真に必要なことは、われわれが先ず自分に最も手近な事を誠実に行うことであります。
<『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)より>
とも語っているから、全く戦況の好転する見通しがないこの時期、〝「雨ニモマケズ」の精神〟を身に付けるように心掛けるのが一番良いと谷川は聴衆に示唆していることになる。
 つまりこれらのことからは、満州移民や満蒙開拓に関わって賢治は利用されといえるし、「雨ニモマケズ」も同様であったと言えそうだ。ちなみに後者について西田良子は次のように論じていた。
「雨ニモマケズ」の中の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という<忘己><無我>の精神や「慾ハナク」の言葉は戦時下の「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンと結びつけられて、訓話に利用されたりした。その後教科書にも採用されたため、「雨ニモマケズ」は日本中の子どもたちに愛誦されるようになり、宮澤賢治は次第に<聖人><賢者>のイメージを強くしていった。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)より>

 よって残念なことだが、どうやら、
    「雨ニモマケズ」は満蒙開拓の推進や戦意昂揚等のために国策的に利用された。…………②
と言わざるを得ない。つまるところ、①と②より、
 宮澤賢治の羅須地人協会の活動には農本主義的な側面があり、「雨ニモマケズ」は満蒙開拓の推進や戦意高揚等に利用された。…………☆
と判断せざるを得ないようだ。 

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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