みちのくの山野草

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佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#17)

2017-09-27 10:00:00 | 賢治の稲作指導
《稗貫の稲田水鏡》(平成29年5月19日撮影)
 「2.賢治が経験した「サムサノナツ」(冷夏)」
 では今回は、佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治「雨ニモマケズ」小私考-「サムサノナツハオロオロアルキ」考』の中の「2.賢治が経験した「サムサノナツ」(冷夏)」についてである。
 さて、私はここまで『北農』掲載の佐々木多喜雄氏の一連の論考を読み、同氏の徹底した実証的な研究態度と学問に対する厳しくて真摯な姿勢に敬服し、今では私淑している。ただし、今回は少し肯んずることができない点があることを私は述べることになりますが、それも佐々木氏の探究に敬意を表しているが故のことでありますので、お許しいただきたい。

 それは、同氏が、
 大冷害の前4回は盛岡高農時代までのもので、すでに報告(佐々木2005)したように、農業への関心は低かった時代である。意識して冷害を経験したのは、あと2回のみと思われる。なお、昭和2年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった(福井1958<*1>)という。
    …(投稿者略)…
 実際に稲作の冷害実態を身を以て経験したのは中程度冷害の1926年(作況指数80%、干害及び水害も含む)と1927年(同88%)の2回程度ではなかろうか。
             〈『北農 第74巻第1号』(北農会2007.1)91p〉
と述べていることに対して、先ずは「稲作の冷害実態を身を以て経験したのは中程度冷害の1926年(作況指数80%、干害及び水害も含む)」とあるが、どうも一部違うのではなかろうかと思ったからである。

 実は、私はかつて〝3538 ではサムサノナツハ?〟において、次のようなことを論じたことがある。
 では、羅須地人協会時代の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」くような冷害はどれくらいあったのであろうか。かつて宮城県古川農業試験場長であった宮本硬一博士の論考の一つに「賢治における「ヒデリ」雑感」があり、そこには
 大正二年の大きな冷害のあと、昭和五年までの一六年間は、低温による凶作が東北地方の何処でも起こらなかった、いわば、イネの豊作期に当たっている。しかも夏の好天気は、これを裏返して言えば、干ばつ型の天候ということになる。盛岡地方気象台の資料によると、大正の末期から昭和の初めにかけては、干ばつが夏に続出し、県全体の作況を大きく減少せしめるほどの干害をうけた年も出たほどである。一九二六年と一九二九年(昭和四年)にはイネの作柄が、岩手県全体で「不良」<*1>となり、一九二四年(大正一三年)、一九二七年(昭和二年)および一九二八年(昭和三年)も「やや不良」<*2>の作況となった。
               <『啄木と賢治 1976年 新春号』(みちのく芸術社)64pより>
と論じられている。
 一方『都道府県農業基礎統計』によれば、当時の岩手県の水稲の反収は次表

              <『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
のようなものであったという。
 この両者を比べてみると前者からは大正13年の作柄は「やや不良」、後者からは同年の反収石高は2.00ということなのでやや矛盾はあるものの、それ以外はあまり矛盾はないし、「盛岡地方気象台の資料によると、大正の末期から昭和の初めにかけては、干ばつが夏に続出し」とあるように、大正13年は旱害でこそあれ冷害だったわけではないということは周知のことでもある。
 したがって、これらの2つ(論考と統計資料)から、
 大正2年の大きな冷害の後の昭和5年までの16年間、低温による凶作、つまり冷害は岩手では全く起こっていなかった。
と言えるだろう。
と。
 この期間は、いわゆる「冷害空白時代」あるいは「気温的稲作安定期」であり、このことは『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)そして卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』(成山堂書店)もそれぞれ指摘しているところでもある。
 ちなみに、上掲『岩手県農業史』によれば、
《大正2年~昭和9年の間の冷害と干害発生年》
 大正 2(1913)年冷害(66)
 大正 5(1916)年干害
 大正13(1924)年干害
 大正15(1926)年干害
 昭和 3(1928)年干害
 昭和 4(1929)年干害
 昭和 6(1931)年冷害
 昭和 7(1932)年干害
 昭和 8(1933)年干害
 昭和 9(1934)年冷害(44)
<注:( )内は作況指数で、80未満の場合の数値>
ということでもあり、1926年の「作況指数80%」はすれすれのところで矛盾はしないものの、どうも「中程度冷害の1926年(作況指数80%、干害及び水害も含む)」とは言えそうにない。『岩手県農業史』では、同年は「干害」とされているからである。

 もちろん、「中程度冷害」であったことを完全に否定することは私にはできないが、この1926年、すなわち大正15年当時の新聞報道を見てみれば、早い時点から日照りや干害のことがしばしば新聞に取り上げあられていて、とりわけ隣の紫波郡は大旱害となり、飢饉一歩手前であったから新聞は連日のようにこの惨状を取り上げており、年が明けてもそうであった。したがって、この年が干害であることを伝える新聞報道は沢山見つかるのだが、この年が「冷害」だったという新聞記事を私は未だに見つけられずにいる。
 一方で、陸続と救援の手が地元はもとより宮城県やはては東京からも差し延べられていることなどが12月から明けて1月は連日のように新聞報道されていた。ところがこの12月に賢治は約一ヶ月上京していたわけだし、明けて昭和2年1月になっても賢治が隣の紫波郡の大旱害のにあたって救援活動をしたということを裏付ける証言も資料も何一つない。したがって、この意味でも、賢治が「稲作の冷害実態を身を以て経験したのは中程度冷害の1926年」とは言えないだろうと私は思っている。

<*1&2:註>『北陸農政局』によれば作況指数と作柄の関係は次の通り。
   作況指数   作柄(出来高)
   106 以上    「良」
   102~105    「やや良」
   99~101     「平年並み」
   95~98     「やや不良」
   91~94     「不良」
   90以下     「著しい不良」

<参照> 
『ヤマセと冷害』より
昭和2・3年の稲作と賢治
岩手県水稲反収推移
下根子桜時代の花巻の気象(#1)
下根子桜時代の花巻の気象(#2)
稲作と『農業科学博物館』(#2)

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