《創られた賢治から愛すべき賢治に》
当時の岩手の冷害では、羅須地人協会時代の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」くような冷害はどれくらいあったのであろうか。
かつて宮城県古川農業試験場長であった宮本硬一博士の論考の一つに「賢治における「ヒデリ」雑感」があり、そこには
大正二年の大きな冷害のあと、昭和五年までの一六年間は、低温による凶作が東北地方の何処でも起こらなかった、いわば、イネの豊作期に当たっている。しかも夏の好天気は、これを裏返して言えば、干ばつ型の天候ということになる。盛岡地方気象台の資料によると、大正の末期から昭和の初めにかけては、干ばつが夏に続出し、県全体の作況を大きく減少せしめるほどの干害をうけた年も出たほどである。一九二六年と一九二九年(昭和四年)にはイネの作柄が、岩手県全体で「不良」<*1>となり、一九二四年(大正一三年)、一九二七年(昭和二年)および一九二八年(昭和三年)も「やや不良」<*2>の作況となった。
<『啄木と賢治 1976年 新春号』(みちのく芸術社)64pより>と論じられている。
一方『都道府県農業基礎統計』によれば、当時の岩手県の作況は次表
<『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
のようなものであったという。
この両者を比べてみると前者からは大正13年の作柄は「やや不良」、後者からは同年の反収石高は2.00ということなのでやや矛盾はあるものの、それ以外はあまり矛盾はないし、「盛岡地方気象台の資料によると、大正の末期から昭和の初めにかけては、干ばつが夏に続出し」とあるように、大正13年は旱害でこそあれ冷害だったわけではないということは周知のことでもある。
したがって、これらの2つ(論考と統計資料)から、
大正2年の大きな冷害の後の昭和5年までの16年間、低温による凶作、つまり冷害は岩手では全く起こっていなかった。
と言えるだろう。<*1&2:註>『北陸農政局』によれば作況指数と作柄の関係は次の通り。
作況指数 作柄(出来高)
106 以上 「良」
102~105 「やや良」
99~101 「平年並み」
95~98 「やや不良」
91~94 「不良」
90以下 「著しい不良」
<参照>
・『ヤマセと冷害』より
・昭和2・3年の稲作と賢治
・岩手県水稲反収推移
・下根子桜時代の花巻の気象(#1)
・下根子桜時代の花巻の気象(#2)
・稲作と『農業科学博物館』(#2)
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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