みちのくの山野草

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2468 稲作と『農業科学博物館』(#2)

2011-12-21 08:00:00 | 賢治関連
 〝稲作と『農業科学博物館』(#1)〟の続きである。

 さてその目的だが、一つ目は賢治が下根子桜に住んでいた期間の水稲の作柄、特に下図
《図表3 岩手県のイネの収量の変化》
 
<『図説 宮澤賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹共著、河出書房新社)より>
において、図からは〝昭和2年は冷害で不作〟と読み取れるがはたしてそうであったのかを含め、大正15年~昭和3年の間の作柄と不作だった場合の理由を確認することであった。そして2つ目はなぜ陸羽132号は次第に作付けされなくなっていったかという理由を知ることであった。しかし、残念ながらこれらのことは展示物等からは読み取ることが出来なかった。
 そこで、博物館員に直接訊ねてみたところ、次のような回答をいただいた。
(1) 作柄について
 岩手県の作柄は
 ・大正15年 反収 1.76石(旱魃に依る不作)
 ・昭和 2年  〃  1.94石(平年作)
 ・昭和 3年  〃  1.99石(  〃  )
である。

という回答であった。
 したがって、《図表3》では〝昭和2年冷害で不作〟のようにも読み取れるが、そんなことはなくてこの不作は大正15年の旱魃による不作であることが確認できた。納得し安心した。というのは、以前〝『ヤマセと冷害』より〟で言及したように
 賢治が生きていた時代の冷害による凶作年としては明治35年(賢治6歳)、同39年(10歳)、大正2年(17歳)の3回があるにはあったが、賢治18歳~没年までの間は冷害はただ一度の昭和6年しかなかった。
のはずであるが、前掲《図表3》では違っていたからである。しかし、この図表の〝昭和2年は冷害?〟かのように読み取れるが、それは間違いであることが確認できたからである。

 では2つ目の方に対する博物館員の回答だが
(2) 陸羽132号について
 陸羽132号は冷害に弱いところがあった。当初冷害に強いと思われて導入され陸羽132号だったが、その普及が進むにつれて県北や標高の高い水田にも作付けされるようになったために冷害に弱いことが判ってきた。また、陸羽132号は稈(イネの茎)が長いので倒伏しやすいという欠点もあった。
 そこで、これらに対処するために昭和25年~27年頃にかけて、陸羽132号に代わって早生の〝藤沢5号〟や稈の短い〝ささしぐれ〟が普及し始めた。そしてこれらは陸羽132号よりも収量も多かった。

ということであった。以前〝昭和2・3年の稲作と賢治〟で引用した千葉明氏の論文「宮沢賢治の土性調査に続く人びと」によれば
陸羽132号は亀の尾に比べ強稈、多収でいもち病と冷害に強く、しかも早生で良質であり、不良環境でも作り易い
ということであったが、これはあくまでも〝亀の尾〟と比べればという大前提のもとでの陸羽132号の評価ということだったのであろう。これでこちらの方も納得できた。
 やはり〝賢治の肥料設計について少し(その10)〟の「3.当時作付けされた品種の稈長」で触れたように、陸羽132号は稈が長かったということであり、窒素質の施肥の管理をしっかりしないとなおさら倒伏しやすかったということになるのだろう。

 というわけで2つの目的はいずれも達成できた。これも『農業科学博物館』及び担当の官員のお陰であり、ひたすら感謝である。

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