《『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)》
この度このブログの先頭に掲げたような本『ヤマセと冷害』を読んでみて、やはりヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
…(略)…
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
の部分は次のように理解するしかないのだろうと認識した。
実は賢治は、
・旱魃の被害で稲が不作の時に〝ナミダヲナガシ〟た
ことはあっても
・冷害で稲が稔らぬ時に〝オロオロアル〟いた
訳ではなかった。
さらには、実は農民のためには
・旱魃の被害で稲が不作の時に〝ナミダヲナガシ〟た
ことはなかった、と。
だから、賢治がこう手帳にしたためたのは、臥床していた昭和6年の賢治のせめてそうありたかったという悔いと、これからはそうありたいという願いがなせる業だったのだ、と。
それはこの本に載っている
《図2・2『宮沢賢治の生涯とイーハトーブの冷害』》
及び
《図2・3『物語の背景と考えられる冷害および干ばつ年の気温の推移』》
<ともに『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)より>
から読み取れると私も思ったのである。というのは、これらの図表に関連して著者ト蔵氏は次のように語っているからである。
ところがその後、この物語<*>が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」=晴天続きで雨が少なく田圃に水がなくなり枯れてゆく水稲を見て、無念さから思わず涙する農民の姿=旱魃が多く発生している(図2・3)。この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)より>
<*投稿者註:「グスコーブドリの伝記」のこと>たしかにこの図表からは、賢治が生きていた時代の冷害による凶作年としては明治35年(賢治6歳)、同39年(10歳)、大正2年(17歳)の3回があるにはあったが、賢治18歳~没年までの間は冷害はただ一度の昭和6年しかなかったことが解る。
とすれば賢治が
・冷害で稲が稔らぬ時に〝オロオロアル〟いた
ことはなかったと考えるのが妥当であろう。なぜなら、昭和6年の冷害の年には病臥していたし、17歳以前であればまだ中学生以前であったからいずれの冷害年の場合にも賢治が〝オロオロアル〟いたことはあり得ないであろう。
また、貧しい農民のために
・旱魃の被害で稲が不作の時に〝ナミダヲナガシ〟た
ことも実はなさそうな気がする。
たしかに賢治が花巻農学校の教諭時代の大正13年や同14年は稗貫地方は旱が続いたはずだから水田担当の賢治が水引のために苦労して涙したかも知れぬが、はたして農民のために〝ヒデリノトキハナミダヲナガシ〟というとことはあったであろうか。そのころはまだ農民のために献身しようという段階までには至っていなかったはずだからである。また農学校を辞し下根子桜に移り住んだ大正15年には、飢饉一歩手前の惨状にあった紫波郡の赤石村や不動村の大干魃の際に、賢治は下根子桜で近くの若者たちを集めて楽団活動はしていても、この隣の郡内の村々に支援の手を差し伸べたという活動をした事実なさそうだからである。
あるいはまた、山形出身の高等農林生、後に「賢治精神」を実践しようとした松田甚次郎が赤石村を慰問していた大正15年の12月に、賢治は
「セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」
と言って上京・滞京していたからである。
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