みちのくの山野草

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昭和2年は冷夏で、大凶作だったという誤認

2024-04-25 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さて、大正15年の赤石村等が大干魃の際に、賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とは言えないことを知った。ならば、「サムサノナツハオロオロアルキ」についてはどうだったのだろうかと思って調べてみた。
 すると、少なからぬ賢治研究家の、例えば
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。<『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(翰林書房)173p>
という記述や、
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。 <『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p >
そして、
一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。 <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p >
というような記述に出会う。
 つまり、「一九二七年の冷温多雨の夏」や「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定表現にしばしば出会う。しかし、私はこのような冷夏や大凶作があったということを聞いたことはなかった。さて、これらのそれぞれの典拠は何であろうか?
 そこで、少しく調べてみたならば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』620pの、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮澤君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という。
に出会った。念のために、福井の「測候所と宮澤君」を見てみると、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
とあった。
 よって、これか、この引例が「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはず。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に何一つ見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、おそらく、福井のこの記述、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。

 しかし、石井洋二郎氏のあの警鐘
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること……〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26 年度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
を思い出さねばならない。それは、この福井の証言「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は誤認であることをだ(既に実証したことだし、何度か明らかにしてきたことだからここでは繰り返さない)。

 そしてここで確認しておきたいことは、昭和2年は「サムサノナツ」ではなかったのだから、もちろん
    昭和2年の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であった。
ということをだ。

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