みちのくの山野草

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2461 下根子桜時代の花巻の気象(#2)

2011-12-17 08:00:00 | 賢治関連
 〝下根子桜時代の花巻の気象(#1)〟の続きである。
 残されていたのが次の年のことである。
3.昭和3年
 さて、昭和3年の稲作期間において賢治の行った稲作指導についてはどうか。
(1)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)の年譜では
 八月 心身の疲労を癒す暇もなく、気候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母の元に病臥す。
(2)『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜では
 昭和 3年:七~八月、稲熱病や旱魃対策に奔走。
(3) 「新校本年譜」(筑摩書房)では
七月 平來作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教えられた事がある。
 先生は先きに立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などをわかり易くおはなしして下さった。」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことや七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。

<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
となっている。
 私の従前の賢治のこの頃のイメージといえばまさしく(1)の年譜の中の〝心身の疲労を癒す暇もなく、気候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走〟する賢治であった。
 なお昭和3年の稲作期間中、賢治は6/7~6/24の間は花巻不在(滞京・伊豆大島行)、8/10~豊沢町の実家にて病臥していたことになるようだ。

(ア) さて翻って、先ずこの年は〝気候不順〟であったかどうかである。
 そこで下図のグラフを再掲してみる。
《図1》

<素データ<*>は『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
たしかに上図《図1》を見ると昭和3年は他の年とはその傾向が明らかに違うから〝異常気候〟とは言えそうだ。
   6月は多雨、逆に8月~9月は少雨
であり、他の年と比較して折れ線がほぼ上下逆だからである。しかし、この年の花巻では田植え時の6月に雨量が多かったのだから稲作にとっては気候不順どころか好ましいことのはず。また、たしかに7月は他の年と比較して雨量は少ないが、これだけ雨が降れば旱魃の心配はないのではなかろうか。一方8月~9月の雨量はかなり少ない。とはいえこの時期の水稲にとっては多雨多湿よりははるかに好ましいのではなかろうか。つまり、他の年と比べれば〝異常気象〟ではあるが〝気候不順〟とはいえないのではなかろうか(もし、この調子で〝気候不順〟というのであれば、この頃は毎年〝気候不順〟になりそうだ)。

 一方は気温については下図のように
《図2》

《図3》

<共に素データ<*>は『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となっているから、気温の方は平年並みである。
 ところで岩手の農民が一番恐れているのは
  冷害=冷温多湿
という図式だが、この年はその図式にもないかことになるから冷害の心配もあまりなかったようだ。
 したがって昭和3年は〝気候不順〟というよりは他の年に比べれば異常だったということであり、素人考えなのかもしれないが、この年の気候は稲作にとっては不順だったとはあまり言えないのではなかろうか。

(イ) 次に〝七~八月、旱魃対策に奔走〟に関してである。
 これは前項(ア)で述べたように、田植え時の6月~7月の旱魃の心配はなさそうである。ただし8月~9月はかなり少雨である。しかしこの時期にはたして旱魃対策が必要だったのだろうか。
 しいていうならば懸念されるのは日照時間である。もし花巻のそれも次のような水沢の日照時間と同様であったならば
《図4》

《図5》

<いずれも素データは『岩手県気候誌』(盛岡気象台、財団法人気象協会盛岡支部)より>
たしかに昭和3年の水沢における日照時間は例年に比して概して少ないし、花巻も似た傾向があったことであろう。ということは極端な日照りになっていたとも思えない。
 したがって、雨量、気温、日照時間いずれの点からもこの年に旱魃対策が必要だったとは思えないような気もする。
<補足> 参考のために賢治没年は豊作だったので、その年昭和8年の旬日照時間も併せてグラフ化してみた。たしかに豊年の年だけあって、日照時間は殆どどの旬でも平均を上回っていることが一目瞭然である。

(ウ) すると一番懸念されるのが〝七~八月、稲熱病対策に奔走〟である。
 この記載は「七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為」という証言に基づくところ大だと思うが…。
 一般に、低温、日照不足、窒素質肥料過多、遅播き遅植えが稲熱病多発の原因といわれているようだ。
 するとこの年は〝低温〟であったか。少なくともグラフ《図4~5》からは昭和3年の気温は例年並みであることが読み取れるから、稲熱病多発の主原因が気温よるものとは思えない。
 ではこの年は〝七~八月、日照不足〟であったか。それは《図4~5》からはたしかに心配されることである。特に8月上旬のそれは一番少ないし、これは水沢だけでなく花巻も同様であったに違いない。しかし、8月の中旬になると逆にそれは一番多くなっている。素人考えからすれば帳消しになったような気がするが如何なものであろうか。
 もしこの素人考えが成り立つとすれば、残されている多発の原因は〝窒素質肥料過多・遅播き遅植え〟である。もしかするとこのことが絡んで、賢治が肥料設計・稲作指導をしてやったが故に〝稲作の不良を心痛し、徹宵東奔西走〟したのではなかろうか。

 なお〝八月…風雨の中を徹宵東奔西走〟の〝風雨の中〟ということは現実にはあまり起こらなかったであろう。昭和3年の8月は極めて雨量が少なかったからである。
 したがって、前に
 『私の従前の賢治のこの頃のイメージといえばまさしく(1)の年譜の中の〝心身の疲労を癒す暇もなく、気候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走〟する賢治であった』
と述べたが、このイメージは少なくとも昭和3年の場合には当て嵌まらないのではなかろかということも考えられる。
 もしかすると、〝稲作の不良を心痛し、徹宵東奔西走〟した訳は、昭和3年の農繁期に花巻を留守にして上京していたことを悔い、帰花後にその償をするために奔走したということも論理的にはあり得るのではなかろうか。

 そこで、下根子桜時代後期の賢治の私の今までのイメージ
心身の疲労を癒す暇もなく、気候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走
はこの際改めて、この時期昭和3年の稲作期間の新たな私の賢治像は
農繁期の6/7~6/24間は花巻不在(滞京・伊豆大島行)。帰花後、稲熱病の予防と駆除の指導のため近隣の村々を奔走し疲労困憊、8月10日発熱して豊沢町の実家に戻って病臥。
とし、特に今まで持っていた〝風雨の中を徹宵東奔西走〟といういうイメージは取り去ることにしたい。
 
 最後に、〝昭和2・3年の稲作と賢治〟で触れたように
 ・昭和3年は8月は干天、9月の異常高温と天候不順であったが岩手県は平年作(反収1.99石)。
であったという。

<*註>

<『岩手県気候誌』(盛岡気象台、財団法人気象協会盛岡支部)より>

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