《1↑「…賢治が歩いた野の道」》<『世界偉人伝25』(浅野晃著、偕成社、1961年)より>
このたび ヤジュルさんから、上掲のような写真を送った頂いた。お陰様で、これで私の思い込みが間違っていたことが判り、長年の悩みが全て氷解した。
ヤジュルさん大変ありがとうございました。
以前〝『宮澤賢治研究5・6』より〟において次のようなことを述べたことがある。
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《4 「この時代の農村風景」》<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
に写っている曲がりくねった道と見比べてみると、この度のより鮮明な写真《2『無題の写真』》を見るにつけ、ますますこの道は「詩碑への道」とそっくりに見えてくる。
それゆえ、この道をリヤカーを牽いている人物は〝リアカーを牽いているのは賢治〟で述べた証言<*>もあるゆえになおさら、
この人物は99%宮澤賢治に間違いない。
という確信を私を深めるのだった。
<*註> 宮澤賢治研究家K氏はある地元の人から聞いたこととして、
賢治はリヤカーを牽くとき普通の人のような牽き方はしなかった。普通はハンドルのフレームの中に入って押すのだが、賢治の場合はフレームの中には入らずに外からハンドルを後ろ手で引っぱって牽いていた。という証言を得ているとのことだった。
また一方では、ある大いなる疑問を抱いてしまう。
なぜなら、『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている次の写真
《5 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、346p、昭和61年発行、川島印刷(株))より>
は『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている写真《4 「この時代の農村風景」》と同一写真なのに、前者はリヤカーを引く賢治
と写真の人物を賢治であると特定している(それも平來作蔵である)のに、後者では
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
とただし書きがあり、賢治であるとは言い切っていないからである。
****************************************<以上>**********************************************
ここでいままでの写真を以下に並べて変えてみる。
《5 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、346p、昭和61年発行、川島印刷(株))より>
《4 「この時代の農村風景」》<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
《2 「希望と失望を明滅させながら賢治が歩いた野の道」》<『世界偉人伝25』(浅野晃著、偕成社、1961年)より>
並べ方はズームアウトになるようにしてみた。これで全てが理解できた。いずれも同一の写真であり、違いはトリミングの仕方である。なるほど《5》の人物があまりにもぼやけ過ぎていたわけだ。
そして決定的な情報は上の写真《2》の左側の木標に書かれている文字列である。そこには
『宮澤賢治先生……』
とあるではないか。したがって、このリヤカーを牽いている人物が宮澤賢治その人であろう筈がないことになる。これらの写真は賢治没後の写真でしかあり得ない。おそらくこの写真中の人物は〝賢治を真似た服装をして賢治が使った(ような?)リヤカーを牽いている〟のであろう。もしかするとその牽き方さえも真似て。
よって、『拡がりゆく賢治宇宙』には
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
とあるが、多分
リヤカーを牽いている人物は瞥見すると賢治に見えるが、実は賢治の姿を真似た人物にすぎない。
ということになりそうだ。
改めて、ヤジュル様大変ありがとうございました。
お陰様で私の頭の中の濃霧がすっきりと霽れわたりました。
これからもご指導どうぞよろしくお願いいたします。
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