みちのくの山野草

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全てが皆繋がった

2019-02-13 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

鈴木 ではそろそろ思考実験はこのあたりで終えることとして、この思考実験の結果も踏まえ、なおかつ先の仮定、
     「昭和7年に賢治は遠野の露に会いに行った」という「噂話」が花巻にも伝わってきた。……④
以外の推測部分は極力排除してまとめてみようか。
荒木 それは俺にまかせろ、それは大体こういうことになる。
 昭和7年のこと、
(1) 賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねて行った。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」という程度の認識ではあったが、世間一般から見れば常識的にはあり得ない訪問だったのでそれは良からぬ「風聞」となってたちまち広がってしまった。
(2) もちろん訪問された露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた花巻高等女学校時代の級友ナヲに相談した。ナヲはそのことを夫の関登久也に知らせた。そして、登久也から友人でもあるXにそのことが伝わった。
(3) そこでXがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと焦った賢治は関登久也の家に行って弁解した。
なお、関登久也の「面影」の中の
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
と、佐藤勝治の「賢治二題」の中の
 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである
という二つののエピソードは実は同一のものであった。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、実は「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」のことであり、中舘がこの「風聞」を賢治に書簡で伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
鈴木 なるほどな、今までこれらがそれぞれ別個のものだとばかり思っていたが、こうして皆すんなりと全てが繋がった。実は何のことはない、いずれも皆一つのことについて述べていたということだったのか。
荒木 つまり、事の起こりは「昭和7年、遠野の名家小笠原家に嫁いで行った露にあろうことか賢治がわざわざ会いに行った」ことにあったのだったということになるべ。
吉田 したがって、これだけ合理的に説明ができたわけだから逆に、先の仮定〈④〉が現実に起こっていたことも、
    露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に会いに来たことがある』と言っていた。
という意味の証言も、しかもそれが昭和7年であったことも皆信憑性がかなり高いものとなったと言えるだろう。
荒木 どうやら、関も中舘も勝治も、そして露本人も皆このことに関連していると判断できそうな証言を残しているから、
 賢治は昭和7年に、遠野に露に会いに行っていた」ということはほぼ事実であり、そしてそれは一大スキャンダルとなったということの蓋然性がかなり高くなってしまった。
ということか。
鈴木 というわけで、次の3つの資料、
    ・関登久也の「面影」
    ・佐藤勝治の「賢治二題」
    ・中舘宛書簡下書〔422a〕
における「昭和7年」と思われる露に関する記述内容の幾つかが、<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となる可能性があるかというと、ある一つを除いてはほぼあり得ないだろうということが今までのことからほぼわかった。そしてその「ある一つ」とは、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」のことだ。
 しかし、実はそもそも果たしてこの「賢治氏知人の女の人」 が露その人であるかどうかもはっきりしていないし、はたまた露がそのようなことをしたという何らかの裏付けがあるというわけでもない。しかも、中傷的に言ったというその中身も全くわかっていないのだから、所詮これは「あやかし」に過ぎない。
吉田 しかもこの「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」の部分は実は嘘であり、この部分は正しくは、「「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という風聞が広まっていた」という蓋然性も、また、「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」ということ自体の蓋然性もそれぞれ極めて高いということも共に知り得た。
 もちろん、これらの3つの資料の中に今回のことに関わって露がその非を問われるものは前掲の「ある一つ」以外にはないし、一方では、賢治のそれはかなりあると言ってもよいということもまたわかった。
 したがって、これらの3つの資料のいずれによっても〈仮説:高瀬露は聖女だった〉が棄却されるということはない。そんなことをしたならば、それはあまりにもアンフェアなことだということもあるが、それ以前にこの「ある一つ」それこそが「あやかし」なものなので、そんなもので検証などはできないからだ。
鈴木 それから、これら以外のことで「昭和7年」において検証作業をせねばならない資料や証言は今のところないはずだから、これで「昭和7年」に関してはその作業は全て終了した。
荒木 ということは、「昭和7年」関連についてもこの<仮説>の反例は何一つ見つからなかったから、やはり今回も<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてよい、ということか。いやあ嬉しいな。
吉田 とはいえ現段階では、「聖女だった」とまで言い切ると、この世の中だから必ず文句を言いたがる人もいるだろうから、
    高瀬露は巷間いわれているような〈悪女〉では決っしてなかった。
ということにしないか。
荒木 むっ、なんでだ。
吉田 それは、このような表現の仮説にしたならば、もちろん反例は何一つ見つからないし、誰だってもう文句のつけようがないだろうからだ。
荒木 なるほど、〈仮説:高瀬露は聖女だった〉が検証できたといきなり声高に言い張るよりは、段階を踏んでということだな。いいよいいよそれで。俺たち三人で、
 少なくとも、高瀬露は巷間いわれているような〈悪女〉では決っしてなかった、ということを明らかできた。
ということで。
鈴木 もちろん私も、現段階ではそれで十分満足だ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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