《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さて前回で、そのために東奔西走したとまでは言えないにしても、 羅須地人協会時代の賢治は昭和3年になってからの農閑期にであれば、農民たちへの肥料設計のために献身したことがある。
ということはたしかに納得できた。それでは、同時代の賢治は「肥料設計・稲作指導のために東奔西走した」と巷間いわれているようだが、そのうちの「稲作指導のために東奔西走した」ということについてはどうか。残念ながら、大正15年にはそれは見られなかったし、多くの賢治研究家が「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」ために「五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する」というようなことを述べているが、昭和2年が「多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の大凶作となった」というような歴史的事実は全くなくかったから、昭和2年の稲作期間に、天候不順による稲作指導や肥料設計のために賢治が東奔西走する意味も必要性も共になかった。となれば、昭和3年の田植え作業から始まる農繁期にこそ初めて「稲作指導のために東奔西走」していたのだろか。そこで、昭和3年4月~6月分における賢治の営為等もう一度見てみよう。
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体に解散を命じた。
伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
五月七日(月) 前校長畠山栄一郎が来花したので歓迎会。賢治・堀籠文之進・阿部繁らが参加。
五月一六日(水) 夜、堀籠文之進を訪ねる。稲草腐敗病について話し合う。
五月二八日(月) 大橋珍太郎宛書簡234
五月 黒澤尻高等女学校校長を訪う。
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
五月七日(月) 前校長畠山栄一郎が来花したので歓迎会。賢治・堀籠文之進・阿部繁らが参加。
五月一六日(水) 夜、堀籠文之進を訪ねる。稲草腐敗病について話し合う。
五月二八日(月) 大橋珍太郎宛書簡234
五月 黒澤尻高等女学校校長を訪う。
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
残念ながら、これらの中からはそれを見出すことはできない。それどころか逆に、「猫の手も借りたい」と云われる田植えの時期(昭和初期であれば入梅の頃以降)に賢治は上京し、20日間弱花巻を留守にしていたことがわかる。つまり、
羅須地人協会時代の賢治が、昭和3年6月までのうちで「稲作指導のために東奔西走した」ということ客観的に裏付けてくれるものはまだ何一つ見つからない。
ということになる。となれば、羅須地人協会時代の賢治が農民のために東奔西走したのは一体いつだったのかと問われれば、それは昭和3年7月以降にであったとなる。残された期間は最早たった2ヶ月しかなくなった。それにしても、賢治はなぜ、昭和3年の農繁期である6月に20日間弱もの長期間に亘って上京・滞京していたのだろうか。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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