みちのくの山野草

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昭和3年農繁期6月の滞京(前編)

2016-05-27 09:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
賢治の心境に激変
 さて、ではなぜ賢治は昭和3年の農繁期である6月に20日間弱もの長きに亘って上京・滞京していたのだろうか。それを探るために、まずは昭和3年6月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。  
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
のようになっている。併せて、それぞれのメモについて翻訳(?)すればそれぞれ次のように、
 6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
 6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
 6/17(日) 帝国図書館、築地小劇場
 6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
 8/19(火) 農商務省、新橋演舞場
 8/20(水) 農商務省、市村座
 6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
となるようだ。
 一方、詩の創作数の推移については下表のように、
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】

             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
となり、この月に詠んだ詩としては
 6/10 <高架線>
 6/13 <三原 第一部>
 6/14 <三原 第二部>
 6/15 <三原 第三部>
  〃 <浮世絵展覧会印象>
 6/19 <神田の夜>
 滞京中<自働車群夜となる>
  〃 <公衆食堂>
  〃 <孔雀>
  〃 <恋敵ジロフォンを撃つ>
  〃 <丸善階上喫煙室小景>
  〃 <光の渣>
 6月下旬<〔澱った光の澱の底〕>
があるという。
 こうして眺めてみるとすぐ気付くこととして、前年10月以降殆ど詠まれていなかった詩がこの上京直後から一気に沢山の、それも長編の「三原三部」を含む詩が詠まれていたということだけからしても、明らかに賢治の心境に激変が起こっていたであろうということがある。
 すると逆に心配になってくることがある、それは、もしこのような上京であったとするならば、この時期故里花巻の農家では当時であれば「猫の手も借りたい」といわれていた田植え時であるが、これらの詩の中にそのようなことを詠んだ詩は見つからないし、この滞京時の賢治の「浮世絵鑑賞」そして何より連日のように観劇に出かけている賢治の実態は、私が抱いてきた「農民たちのために献身した」賢治像とはあまりにも乖離しているのではなかろうかということなどがそれだ。言い換えれば、これが行動面に現れた「激変」ではなかろうかこということだ。しかもそれは杞憂でも何でもなく、賢治は後程澤里武治に宛てた書簡(243)の中で、
    …六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っているということだから、そのような観劇をしたであろうということをこれは裏付けているから、おそらくそれは事実であっただろう。つまり、この頃の賢治にはもはや地元の農民たちのことはほぼ眼中にはなかったということになりそうで、賢治の内面でも外面でも明らかな「激変」が起こっていたことはもはや否定できなかろう。

「伊豆大島行」はあくまでも兄七雄を訪ねるため
 ところで、この時の「伊豆大島行」の目的は伊藤七雄・ちゑ兄妹に会うため、とりわけ、あの長編詩「三原三部」から窺えるように伊藤ちゑとの見合いのためあるいはそれを進展させるためであったという人がいるかもしれない。例えば、境忠一は、以前伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪ねた<*1>際に、
 賢治は伊豆大島を訪ねることを約束し、六月初旬、農産製造・水産製造についての研究のために上京しており、足をのばして、大島の兄妹を訪ねたのである。
              <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)>
と述べているから、その約束を履行するためだったと。
 しかし私から言わせてもらえば、少なくともこの「伊豆大島行」がちゑとの見合いのためだったとか進展させるためだったということはなかろう。それは、ちゑが10月29日付藤原嘉藤治宛書簡<*1>で
この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と述べているし、同じくちゑが森荘已池に宛てた手紙<*2>の中で
    たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、昭和3年6月の「伊豆大島行」以前に、年老いた母に義理立てをして花巻を訪ねて既に見合いをしたということが言えるし、これと宮澤清六の証言『伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった』<*1>も併せて考えれば、伊藤兄妹が賢治との見合のために花巻を訪れたのは昭和2年10月であったと判断できるからである。
 しかもちゑが、
    賢治の「大島行」は伊藤七雄・ちゑ兄妹を訪ねたわけではなく、あくまでも兄七雄を訪ねたものであった。
という意味のことを言い切っていることも軽視できない。更に、後年ちゑが森荘已池に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節には、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
と書かれていることから判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 実際その「伊豆大島行」で賢治とちゑとの間に何があったかというと、ちゑ自身が森荘已池宛書簡において、賢治の
   ――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145pより>
と述懐していたことから導かれることだが、二人の間にはこれといったことが殆ど何もなかったということになろうから、「伊豆大島行」は少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものでもなかったであろう。それは、昭和3年の「伊豆大島行」に関して時得孝良氏が学生時代に、ちゑを訪ねて本人から次のような聞書きを得ていることからも判る。具体的には、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」といった程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものはなかった。
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と述べていることからもそのことが窺える。したがって、
    賢治の「伊豆大島行」はあくまでも兄七雄を訪ねることが最大の目的であった。
ということも十分に考えられることに私は気付いた。
 なお、藤原嘉藤治が『新女苑』において、この時の「伊豆大島行」に関して賢治が、
 「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と証言しているから、賢治としては妹のちゑに逢うためもあって伊豆大島を訪ねたのかもしれないが、ちゑの「つれない素振り」に賢治が気付かなかったはずはなかろう。

<*1:註> 10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡(抜粋)
秋晴れの良いお日和が続きます。先日は失礼申し上げました その後御家族ご一同様には御変わりも御座居ませんか 謹んで御伺ひ申し上げます
宮澤さんの御本、色々とありがたう存じました 厚く厚く御礼申し上げます
又、お願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。…(略)…宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます能…(略)…御残しなつた□□の心象詩の一行にも当らぬ程の途上の一瞬の関心を 御永眠後世に発表遊ばしたら きつとあの優しいお目を きらりとおさせになつて 止めてくれと仰言ると存じられます 私宛のものでしたら私だけ読ませて頂いて終いひにさせて下さいませ こんな事を申し上げるのもお恥ずかしいのですけれど 私事は仰臥天井を眺めて病床に五年も居りますのに まだ尚も凡悩迷低その上□□の代者で御座居ますので 立派なあの方の御本のどの頁にも 私如き者の名を入れて汚したく御座居ません能 考へれば考へます程とてもつらくなつてしまひます どうぞどうそお判り下さいませ あのお方が御生前ふれ合ふ凡ての人々に対して惜しみなくあたへられた あの親しい眞実な微笑みと底なしの友情は 遠くの方から少し私も分けて頂き 残る半生をつつましく迎へたいと存じております。…(略)…御多忙の中を誠におそれ入りますけれど 花巻の御宅へどうぞよろしくおとりなし下さいませ どんな御手紙を御残し下さいましたか 謹んで拝見させて頂きます …(略)…少し遅れましたが 見事な果物本当に本当にありがたう御座居ました 美味しくみんなで頂きました だんだんお寒くなります折から どうぞみな様御風邪など御召し遊ばしませぬやう 末筆で大変おそれ入りますが 奥様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ    あらかしこ
    十月二十九日                                                      伊藤ちゑ
    藤 原 嘉 藤 治 様
彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ

 昨今、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし出しているようだが、この書簡による限り、それは「昭和3年」でもないし「春」でもない。しかも、宮澤清六は『伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった』と証言しているから、これと併せて判断すれば、
    伊藤兄妹が賢治との見合のために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ間違いなく言える。そしてそれは奇しくも、露が「昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました」と証言しているから、その遠慮し出した直後のことであったとも言える。
<*2:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
               <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
と綴っているということだから、この見合いは老母のことを慮って等のものであり、しぶしぶのそれであったことがわかる。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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