みちのくの山野草

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確かに献身していた農閑期の肥料設計

2016-05-22 14:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、ここまで私は羅須地人協会時代の賢治が貧しい農民たちのためにどのような献身をしたのかということを検証したきたのだがその結果、同時代の賢治は、大正15年の場合はヒデリに対して、とりわけ隣の郡内の赤石村等の大旱害に対して何一つ救援活動をしなかったし、昭和2年の場合は多雨冷温の天候不順の夏だったので肥料設計・稲作指導のために東奔西走したと巷間云われてはいるが、その実態は具体的には何一つ見えてこなかった(それはもちろん当然で、昭和2年が「多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の大凶作となった」というようなことなど全くなかったから宜もないことだし、巷間「昭和2年の6月末までに賢治の肥料設計2,000枚を超えた」といわれているが、その裏付けもなされてはいない)。ところが、その開設日には多少疑問が残るものの、昭和3年の3月に1週間ほどかけて石鳥谷で開設されたといわれている「塚の根肥料相談所」における賢治の肥料相談の中身は濃く、その参加者も多く盛況であったということが教え子の証言等から裏付けられるからこれでやっと、同時代の賢治が「肥料設計・稲作指導のために東奔西走した」と言える具体事例の一つが初めて明らかになったと言えよう。

 とはいえこれだけでは、同時代の賢治が農民たちのために献身したとはとてもではないが言い切れない。もちろんこれら以外のことも賢治は農民たちのために献身したはずだがそれを客観的に裏付けるものはない。となれば残された昭和3年の4月以降に賢治は農民たちのために八面六臂の活躍をし、献身したということが考えられるから、次に昭和3年4月~6月分における賢治の営為等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみる。
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体に解散を命じた。
 伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
五月七日(月) 前校長畠山栄一郎が来花したので歓迎会。賢治・堀籠文之進・阿部繁らが参加。
五月一六日(水) 夜、堀籠文之進を訪ねる。稲草腐敗病について話し合う。
五月二八日(月) 大橋珍太郎宛書簡234
五月 黒澤尻高等女学校校長を訪う。
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。  
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>

 さてこれらの中で、そのようなことに関連しそうなことは
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
であるが、農民たちのために献身しという観点からは、詩<台地>からは献身ぶりは読み取れないからそのことを裏付けてくれそうなものは、「農界の特志家/宮沢賢治君」である。そしてそれは次のようなものであるという。
    農界の特志家     佐藤文郷
 花巻の名物は温泉と人形とおこしとだけではない。円満な物外和尚をしのばせる様な宮沢君も現在花巻名物の一つである。そして此の花巻名物が県の名物となる時が来るかと思われる。…(略)…
 最近二度ほど君の仕事を見るに、冬閑は農家の希望により、学術講演に近村に出かけ殆んど寧日がないとか而して決して謝礼を受けない。昨今は土木管区事務所に出張して、農家の相談相手となり、肥料設計をしてゐる。数日前、君の店を訪問したるに箱の様な代用机三・四脚の腰掛、其処で十四・五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居つた。非常に丁寧な遠慮深い農家だと思つたに、是は皆な無料設計で用紙なども自宅印刷なので、自己を節するに勇敢で他に奉ずる事に厚いと噂にきいてゐる。宮沢君は世評の如く誠に飾ざる服装で如何にも農民の味方の感があつた。(岩手県農会報 百八八号 昭和三年四月刊)
              <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)301pより>
 この、昭和3年4月以前に2度も賢治の仕事を目の当たりにした佐藤の記述に従えば、農家の人達が14~15人も待っていたのを彼は目にしたわけだからこの肥料設計はさぞかし評判もよくまた賑わっていたことは間違いなかろう。当然、当時の賢治の肥料設計に対する期待と評価は高かったであろうことも容易に推察できる。もちろん、佐藤は賢治のことを高く買っていたということもまたわかる。
 したがって、昭和3年になってからの農閑期に、賢治が地元花巻や石鳥谷の農家のために肥料設計や肥料相談に献身的に取り組んでいたということはこれでまずの間違いないだろう。これで私はやっと、羅須地人協会時代の賢治が巷間「肥料設計・稲作指導のために東奔西走した」といわれてる内の農閑期の「肥料設計」に関しては納得できた。つまり、同時代の賢治が農家の肥料設計のために献身したということは、たしかに昭和3年になってからの農閑期にあったと認めることができる。
 なお、例えば昭和2年の場合に賢治は「田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた」という記述がしばしば見られるが、これは事実でなかったことは先に実証したところであるが、そもそも、このような農繁期に肥料設計で多忙をきわめるということはもともとあり得ないはずだ。それは、農閑期に為されるはずのものだからだ。

 つまるところ、
 羅須地人協会時代の賢治は農閑期に、農民たちへの肥料設計のために献身したことがある。
ということが確かに言えるだろう。

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 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。







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