みちのくの山野草

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「グスコーブドリの伝記」(あらまほしき賢治)

2017-02-18 15:00:00 | 賢治作品について
 巷間「グスコーブドリの伝記」は「ありうべかりし賢治の自伝」としばしば言われていて、ブドリと同じような状況下に置かれたならば賢治もそうしたであろうと目されているようだ。

 では「グスコーブドリの伝記」において、ブドリはそのようなこととして具体的には何を行ったのだろうか。例えば、
 そのかわりおまえは、おれの死んだ息子の読んだ本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといつてわらつたやつらを、あつと言わせるやうな立派なオリザを作る工夫をして呉れ。」…(投稿者略)…
 そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じころ、またオリザに病気ができかかつたのを、ブドリが木の灰と食塩しおを使つて食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろつて穂を出し、その穂の一枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろの籾もみにかわつて、風にゆらゆら波をたてるやうになりました。
            <『宮沢賢治全集8』(ちくま文庫)>
とあるのでこのようなことを指すのだろうか。
 しかし、これくらいのことであればそれ程ずば抜けた実績を上げたとまでも言えないであろう。そもそも、稲熱病と思われるオリザに、その対策として木の灰はを使ったことは間違ってはいなかったであろうが、このようなことは普通の農民であれば多分知っていたと思われることだ。また一方で、そのために食塩を使った<*1>ということだが、このような対処の仕方で稲熱病を食い止めたという過去の資料は見つからなかったからはたして正しい対処だったのだろうか。
 したがってこの件に関しては、ありうべかりし賢治と褒めそやされる対象とまでは言い切れないだろう。

 あるいは、イーハトーブの火山局では、
窒素肥料を降らせます。
 今年の夏、雨といつしよに、硝酸アムモニヤをみなさんの沼ばたけや蔬菜そさいばたけに降らせますから、肥料を使うかたは、その分を入れて計算してください。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。
雨もすこしは降らせます。
 旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることができますか ら、いままで水が来なくなつて作付さくづけしなかつた沼ばたけも、ことしは心 配せずに植え付けてください。
とポスターで知らせ、ブドリがぼたんを押した結果、
 火山局にはあつちからもこつちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるやうに思いました。
ということのようだが、このようなことを指しているのだろうか。しかしこれとても所詮物語上のことであり、ありうべかりし賢治の考察の対象とはなりにくい。現実にそのようなことは現在で行われていないことだからだ。

 では、クーボー大博士が次の様に話したことに対して、
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行つたもののうち、最後の一人はどうしても遁げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るやうお詞を下さい。」
とブドリが懇願し、ついにペンネン技師から許しを得て、
 すつかり支度ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまつて、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになつたのを見ました。
ということでブドリは捨身した訳だから、この捨身という自己犠牲に対してならばなにしろ命まで捨てての行為だから、ありうべかりし賢治の考察の対象になりそうだとつい思いがちだ。さりながら、「グスコンブドリの伝記」であればまだしも、こちらの「グスコーブドリの伝記」における結末であればこの捨身の必然性も殆ど感じられずその説得力も乏しいので、このままではその対象になり難いだろう。

 そしてこれらのこと以外に、「ブドリはそのようなこととして」これら以上の何を行ったというのだろうか。残念ながら私にはこれといったものが見つけらずにいる。では、一体なぜこの「グスコーブドリの伝記」のことをありうべかりし賢治の自伝と言う人がいるのだろうか。それはもしかすると、ブドリと同じような状況に置かれたならば賢治もそうしたであったにちがいない、というその想いを大切にしたい人がいるということにすぎないのではなかろうか。
 換言すれば、
    賢治は農民のために自分の命までも犠牲にして献身していたに違いない。
という想いがその人をそう言わせているにすぎないのではなかろうか。

 とまれ、これまでの私の検証結果によれば、少なくとも「羅須地人協会時代」や昭和6年頃の賢治がいわば「ブドリ精神」を実践をしたということも、しようとしたということもはほぼ見つからなかった。とりわけ、飢饉一歩手前の惨状にあった大正15年の紫波郡の未曾有の旱害に対して賢治は無関心でいたということに代表されるように、残念ながら「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていた訳でもなければ、はたまた「サムサノナツハオロオロアルキ」していた訳でもなかったということを私は実証できてしまった。だから私のここ10年間ほどの検証作業を振り返って見れば、「グスコーブドリの伝記」がありうべかりし賢治の自伝とはとても思えない。 
 だから、賢治をブドリに見立てるのはあまりにも負荷のかけすぎであり、賢治に対してはかえって気の毒なことであるとも言えるのではなかろうか。それはちょうど、相馬正一が
 どういうわけか賢治研究者の中には、裸の〈宮沢賢治〉を素直に裸だと認めたがらず、各人各様にきらびやかな衣裳を着せて得意になっている人が少なくない。作品の評価と合わせて、裸身の賢治を自分の肉眼で捉えてほしいものである。
              <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、昭和61年)195pより>
と憂えていることと同じだと私は思う。

 そこで敢えて誤解を恐れずに言うと、ブドリであれば前掲のような時に、賢治のように無関心でいたこということは絶対あり得なかったはずだ、ということを残念ながら私は甘受せざるを得ない。そして客観的に見た場合、ブドリは「ありうべかりし賢治」などでは決してなく、せいぜいある読者から見た場合の「あらまほしき賢治」であるということになるのではなかろうか。

<*1:投稿者註> 賢治の花巻農学校の教え子小野寺政太郎(大正11年3月卒、湯本出身)が、
   賢治先生からイモチ病対策を教わったことがあった。具体的には、食塩を撒布するということだったはずだ。
             〈『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)〉
と証言している。さてはたしてその効果は如何ばかりであったのだろうか。私が調べてみた限りでは、そのようなイモチ病対策は見つからない。

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