みちのくの山野草

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チェロの入手について(前編)

2019-03-22 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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4 チェロの入手について
 エスペラントとチェロ
 さて、賢治はいつ頃からエスペラントを本格的に学び始めたのだろうか。
 このことに関しては、『アザリア』の仲間小菅健吉が追想「大正十五年の秋」の中で、
 大正15年の秋、米国から帰国した小菅は帰朝挨拶のために母校花巻農学校を訪れ、その際下根子桜にも立ち寄ったが、その折賢治が次のように語ったという。
 当時、自費出版で、「春と修羅」「注文の多い料理店」を出したが、日本では解つて貰えないから世界の人に解つて貰う為に、エスペラント語で発表するので、エスペラント語を勉強して居るのだと云つて居た。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左ェ門編著)250pより>
と述べているので、賢治は大正15年の秋に小菅に「エスペラント語を勉強して居る」と語っているということになり、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうと推測される。
 一方、大正15年12月に始まった羅須地人協会での講義だが、その講義予告表の中に
    三月中 エスペラント地人學藝術概論
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
とあるし、『大正十六年日記』(いわゆる「手帳断片A」)の1月1(土)」の欄の
    国語及エスペラント
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
とあることから、その後も賢治はエスペラントの学習を継続していたことが確かであろう。
 そして、大正15年年12月の上京の大きな目的の一つにエスペラントの学習があったこともまた確かであろう。それは、政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕に賢治が次のようなことを、
毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰って…(投稿者略)…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
としたためていることからも言えるだろう。
 もちろんそれは、例の羅須地人協会の講義予定表中の「三月中 エスペラント」の講義のための準備ということもあったであろうが、エスペラントの学習はそれだけのためでないことも大津三郎の次のような証言から明らかであろう。
(「三日間のチョロの特訓」に関して)その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 しかし、ここで注意したいのは大正15年12月12日付政次郎宛書簡「221」で、
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と言っていることにである。この賢治の言に従うならばこの時の滞京の大きな目的の一つに、
    詩作の必要上、オルガンの悪い処を直して貰ふこと
があったということを「12月12日」時点で賢治は言っている訳である。
 ところが先の大津の証言に従うならば、おそらくこの12月末頃の「三日間のチェロの特訓」の際に、
 エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……
と賢治自身が言っている訳だから、賢治の滞京の当初の目的であった
    「詩作の必要上オルガンの悪い処を直して貰ふこと」
が、
    「(エスペラントの)詩作の必要上はオルガンの悪いところを直して貰うよりもセロを学ぶこと」
へと変化していった、ということが言えそうだ。
 もしこの私の推論が事実に即しているとすれば、この賢治の変化は少なくとも「大正15年12月12日」以降に起こったということになるであろう。つまり、
 賢治は大正15年12月の上京の際は初めからチェロを学ぼうと思っていた訳ではなくて、滞京中のある時点から、次第に「どうもオルガンよりセロ」の方を学ぶべきだと思うようになっていった。
と言えよう。

 東京でチェロを入手
 以前から、賢治のチェロにはその胴の中にサインがあるということは伝聞していたが、その写真

が『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵に載っていた。
 確かに
    1926.K.M.
というサインがある。そしてこの「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のことだろうし、
    「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.である。
ことは間違いなかろう。したがって、このチェロは1926年(大正15年)に賢治が購入したものだと言えそうだ。
 ところでこのチェロをどこで購入したかは現時点では判明していないようだが、『チェロと宮沢賢治』の中で著者横田庄一郎氏は、もし地元花巻で購入したのであれば「このあたりからの証言が出てきてもよさそうなものである」(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)52p)と指摘する。たしかに地元にいる私もそのような伝聞は聞かない。
 一方で、「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」という対談の中で井上敏夫の質問に対して、
 そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより>
と藤原嘉藤治が答えている。
 また、横田氏は前掲書でこのチェロは「鈴木バイオリン製の六号だということがわかっており、当時の価格表によると百七十円だったのである」(前掲書51p)ということ、しかもこの6号とはチェロの中では最高級品だったこと、また、チェロ本体に弓も含めればその合計価格は約一八〇円になるだろうということも教えてくれている。さらに同書には、
 賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
とも書かれてあった。
 そういえば、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)の「澤里武治の略年譜」の中にも、
    賢治のセロを背負い花巻駅同行し、賢治の上京を見送る。
とあったことを思い出した。この略年譜の記載内容とこれは符合するから、賢治はチェロを納める「セロ箱」も同時に購入していたことは間違いなかろう。
 すると、同書に載っている価格表には50円と60円の「セロ箱」があるから、最高級のチェロ6号と弓とセロ箱の一式で合計価格は
    180円+(50~60円)=230~240円
となる。
 このことに関して、次のような鈴木バイオリン製造株式会社の鈴木社長の、
    賢治が買った当時、最高級品のセロは数えるほどしか作っていなかったのだと思います。
とか、
    私は研究したわけではないんですが、賢治のセロは東京で買ったものだと思います。
というコメントがやはり横田氏の前掲書(60p)に載っている。
 したがって以上の事柄を総合すれば、賢治はこのチェロをやはり東京で買ったという蓋然性が極めて高い、と言えそうだ。

 大正15年末チェロ入手
 それにしても、花巻農学校を依願退職する頃の賢治の月給は約一〇五円(『宮澤賢治の五十二箇月』、佐藤成著、3pより)ということだから、このチェロ一式(約230~240円)を購入するためにはその2ヶ月分以上を要するほどの高額であった。となれば、滞京中の賢治はそのような大金を一体どうやって工面したというのだろうか。やはり、上京中に父政次郎に無心したあの「二百円」がこのチェロを買うためのお金だったのかもしれない、などと想像したくなった。
 ところで、賢治は大正末(正式には昭和元年末)に「チェロの特訓」を受けて後、直ちに帰花したと判断していいということは先に述べた。それではその際に、既に鈴木バイオリン社製の最高級のチェロ一式を賢治は入手していたかについてだが、結論から先に言ってしまえば入手していた可能性の方が極めて高い。
 なぜならば、大津三郎が「三日でセロを覺えようとした人」において次のように語っていて、
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>
この中に「説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした」という大津の証言があるからである。つまり、この証言は、賢治が下宿先の神田「上州屋」に戻ってからチェロの自習をしたということを意味しており、
    大正15年12月末に賢治は鈴木バイオリン社製の最高級チェロ一式を入手した。
ということが必然的に導かれる。これが、現時点での私の判断である。

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               電話 0198-24-9813

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