みちのくの山野草

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『石川啄木と義父堀合忠操』(小林芳弘著、コールサック社)

2023-12-13 12:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 先日、小林芳弘氏から上掲のような新刊『石川啄木と義父堀合忠操』(小林芳弘著、コールサック社、2023年12月1日発行)をご恵与いただいた。私は啄木のことは、同じ岩手県人なのに、賢治に較べると殆ど分かっていない。
 そこで拝読してみると、小林氏の実証的で緻密な考察と論理的な思考、そして熱量に圧倒された。同時に、石井洋二郎氏あの警鐘
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
を小林氏はまさに徹底して実践なさっておられるのだと私は理解したので、非才ながら賢治に関して少しく論じてきた私は、とても足元にも及ばないことを覚った。
 特に興味が引かれたことの一つは、例えばその「あとがき」の中の次のような記述だ。
 明治期に盛岡で発行されていた新聞には、堀合忠操に関する消息記事が数多く掲載されている。これらの記事や『岩手県教育史資料』「渋民小学校日誌」などを加えて従来の視点とは違う角度から啄木伝記を考察してきた。これまで語られてきた啄木伝記にはかなりの修正が必要 であることを読み取っていただければ幸いである。そのうちのいくつかは人権にかかわる問題であることを再度強調しておきたい。
 啄木伝記研究上の誤りのもとは、ほとんどを啄木日記、書簡、作品などのいわゆる啄木側からの資料に依存しながら、それが事実かどうか充分に吟味されてこなかったことにある。
 相馬徳次郎、遠藤忠志の二人の渋民小学校校長、金矢光春、タツ夫妻の人間像は実物とはかけ離れて歪められて伝えられているのではないか。しかしこれは啄木の責任ではない。啄木愛好者、研究者は啄木の名誉や尊厳などには敏感だが、啄木周辺の人たちの人権に関しては非常に鈍感だと思う。研究者の解釈と姿勢の問題であり今後の啄木研究の大きな課題であると考えている
              〈『石川啄木と義父堀合忠操』(小林芳弘著、コールサック社)458p~〉
 よって、啄木についてはよく分かってい私なのだが、新刊の『石川啄木と義父堀合忠操』において小林氏が啄木に関して問題視し、主張していることは、私が賢治に関して抱いているものとほぼ同じだと直感した。つまり、「賢治年譜」や「賢治伝記」にはいくつかの重要な修正が必要であり、〈悪女・高瀬露〉の濡れ衣という人権問題がなおざなりにされたりしているからだ。ちなみに、この濡れ衣問題に関しては上田哲が
 この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
ようにである。

 そこで私は、小林氏に見習わねばならないのだと私は勇気を奮い起こしてもらった。実は、この度の拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』を最後に、賢治に関しては一段落したと安堵し、これからはのんびりしていようと思っていたのだがそうであっては駄目なのだと目を覚ましてもらった。そこで私は、今後もいろいろな機会と場合を逃さずに私見を主張し続けようと、考えを改めることにした。幾ばくのことももう出来ない老躯ではあるが、少なくとも諦めるなと己を鼓舞し続けよう。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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