《創られた賢治から愛すべき賢治に》
上田哲の指摘さてここまで「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関するMの記述内容の検証をしてきた結果、そこにはかなり信憑性が危ういものがあるということを私は知った。
このことに関連して上田哲は論文“「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―”において次のように
露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や論考にも取り上げられ周知のことなので詳しい記述は必要で内容に思われるが、この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに多くの人は、これらの話を何ら検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
<『七尾論叢11号』(七尾短期大学、平成8年)89pより>と述べている。たしかに上田の言うとおりであり、戦前に発行されている
・『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)の「賢治先生」
・『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)の「面影」
・『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)の「返禮」や「女人」
等を見てみればそれが興味的に扱われていたであろうことがすぐ確認できる。・『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)の「面影」
・『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)の「返禮」や「女人」
また本当に不思議なことに、巷間流布している〈悪女〉ぶりについて検証した人は上田のこの論文が公になる以前には誰一人としていなかったはずだ。私の知る限り、せいぜい佐藤勝治が「賢治二題」において疑問を呈しただけだ。まさしく上田哲の指摘どおり、多くの人は一方的な情報のみを受け容れてきたと言っていい。
「一方的な情報」とは
ではその「一方的な情報」とは何を指すのか。上田は続いて同論文で次のように
高瀬露と賢治とのかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまずM(投稿者イニシャル化)『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。堀尾青史の『年譜 宮沢賢治伝』と共に初めての実証的な賢治の伝記的研究として今日も高く評価されている境忠一の『評伝宮沢賢治』が賢治と高瀬露の〈いきさつを〈もっとも具体的な〉記述<ママ>されている資料と評価し、この本をもとに論述している。またかなりの量も引用している。境だけでなく一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこのMの本を下敷きにしており…(略)…
以上のことからこのテーマの再検証のためM『宮沢賢治と三人の女性』の証言としての真謬性を究明する必要があると思ったのである。
<『七尾論叢11号』(七尾短期大学)89p~より>以上のことからこのテーマの再検証のためM『宮沢賢治と三人の女性』の証言としての真謬性を究明する必要があると思ったのである。
と述べている。そして実際には同書に所収されている「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述を多く引用して、その検証を同論文で行っている。つまり実質的には
一方的な情報=「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述内容
という等式が成立する。
そして上田の言うとおり、『宮沢賢治と三人の女性』が出版されて以降、最近発行されたと言ってもいい『デクノボーなりたい』(YT著、小学館、平成17年)や『賢治文学「呪い」の構造』(YK著、三修社、平成19年)でさえも、明らかに「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述を検証することもほとんどせぬままに使っているという実態がある。是非はさておき、ある意味、この「昭和六年七月七日の日記」の影響力は計り知れない。
境忠一氏の場合
それは、上田が「実証的な賢治の伝記的研究として今日も高く評価されている境忠一の『評伝宮沢賢治』」というところの同書の中においてさえも、例えば
この詩のもとになっているいきさつが、いつごろはじまったのか判然としないが、もっとも具体的な記述であるM(投稿者イニシャル化)の『宮澤賢治と三人の女性』によると、大正十五年下根子に移住してから半年たった秋に<*1>、下根子へゆく田圃道で盛装した彼女に会っているし、その直後賢治がそれを認めているので、この直後であると思われる。Mは賢治がそのひとに知りあったいきさつを次のように伝えている。この頃の記事ではもっともまとまっているので、引用したい。
<『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭和43年)317pより>その協会員のひとりが花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人を連れてきて宮澤賢治に紹介した。…(略)…
と論を展開していることからも読み取れる。
いみじくも境氏の言うとおり「この頃の記事ではもっともまとまっている」から引用したのであり、検証した上ででもなければ裏付けをとった上ででもないのではなかろうかという気がする。それは、境氏が引き続く同書の319pで「下根子の協会は田圃の中につき出た高みにあるので、オルガンの音は周囲にひびきやすかったのであろう…」と述べていることなどから推察される。たしかにそこは高みにあるが、当時その協会の建物の周りには、東側と南側には遠くまで桑畑が拡がり、北側には雑木林の茂みの中に深い河童沢があり、オルガンの音が響くような家は強いていえばせいぜい西側の伊藤忠一の家しかなかったし、その場合だってその音が響いて困るほどの距離にあるわけではない。境氏が一度現場に行ってみればこれらのことはすぐわかったはずだ。
しかも、『評伝宮澤賢治』出版10年後に出版した同氏の『宮沢賢治の愛』においては、
この女性について、今日まで最も明<ママ>らさまに書いているのは、M(投稿者イニシャル化)の『宮沢賢治と三人の女性』といえる。Mは賢治が大正十五年下根子に移住してから半年を経た秋に、羅須地人協会へゆく田圃道で盛装した彼女に会っていて、その直後賢治もそれを認めたと述べているので、最も信頼のおけるものとして紹介してみたい。
<『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月)151pより>その協会員のひとりが花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人を連れてきて宮澤賢治に紹介した。…(略)…
と述べていて、『宮澤賢治と三人の女性』を「最も信頼のおけるもの」とさらに高く評価するようになったと言える。
話は少し横道にそれるがそこに一体何があったのだろうか。すぐに思いつくのはその直前、昭和52年10月に発行された『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の「本文補遺」において、新発見の「書簡下書」がいくつかあり、その中の4通については「露あて」と思われるものもがあったと活字にしたことだ。もしこのことがその切っ掛けや理由であったのだとすれば恐ろしいことである。なぜならば、露は昭和45年に帰天したが筑摩書房はそれを待って、その「書簡下書」が「露あて」であるとし、しかも「新発見」とかたって『校本第十四巻』に発表したということは明らかになっているのだが、それが「露あて」と断定するだけの根拠も説得力も乏しいままにだった。したがってこの「新発見」が切っ掛けとなって境氏がさらに高く評価するようになったというのであれば、筑摩の責任は極めて重いからである。では話を戻そう。
しかし、『宮沢賢治の愛』が出版される前に『校本全集第十四巻』が既に出版されているから、同巻所収の「賢治年譜」にはこのMの訪問は昭和2年のこととして載っていることを境氏は知ることができたのだから、「大正十五年下根子に移住してから半年を経た秋」と断定することに戸惑いはなかったのだろうか。
賢治も嘆いているはず
とまれ、1996年(平成8年)に上田哲が論文“「宮沢賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―”を発表する以前は、件の〈悪女伝説〉は公的には誰一人として検証することもなく裏付もないままに、上田の指摘どおり、「一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこのMの本を下敷きにして」きたと言える。そしてそれは境忠一氏といえども免れ得なかったということでもある。ましてや、多くの人は伝説が流布することに手をこまねいていただけであり、座視してきたと言えよう。
しかしここまで私が検証してみたところ、「下敷き」となっているМの「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述内容そのものには、信憑性がかなり危ぶまれる重要事項がここまでだけでもう既に二つもあることを知ってしまった。そして今後も引き続きこの「下敷き」の検証を続ける予定だがその虞は更に拡がりそうだ。
したがっておそらく、さぞかし賢治はこのことを嘆き、憂えているであろう。まして、前に“宮澤清六の証言より”で触れた賢治がらみの清六の二つの証言だけからしてもわかるように、どうやらこの<悪女伝説>は事実であったとは言い難いからなおさらにである。あげく、それらの証言から導かれる露が、あろうことか『校本全集第十四巻』の出版によって巷間<悪女>にされてしまったという実態があるということを否めないのだから。
私たちはこの二つの証言から賢治のメッセージを読み取る必要がある。一刻も早く捏造されてしまった<悪女伝説>を正せと賢治は訴えているのだと。
<*1:投稿者註>
境氏は、「Mは賢治が大正十五年下根子に移住してから半年を経た秋に」としているが、そもそもこのことに関してはM自身は『宮沢賢治と三人の女性』では
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃道に入つて行くと稲田のつきるところから…(略)…
<『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)74pより>としている。つまり、Mが羅須地人協会に行った際に露とすれ違った時期は昭和3年の秋であったとM自身が証言しているのである。
ところが境氏のいうところの時期は大正15年の秋ということになり、それはMが記している昭和3年のでもなければ、はたまた通説となっている昭和2年(実はこれも怪しいのだがこのことについては後述したい)のでもないことになる。なお、このことに関して境氏は『宮澤賢治と三人の女性』の78pにそう述べてあると註記しているがそのページのどこを見てもそのようなことは書かれていない。境氏は何をその典拠としているのだろうか。
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