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471 梅木文夫について

《創られた賢治から愛される賢治に》
「牧民会(三八)」と梅木文夫
 昭和33年6月14日付『岩手日報』に載っていた「牧民会(三八)」には以下のようなこと等述べられていた。
 また、編集だよりには△盛中の梅木君はついに退学した。春日校長の奴、どこまで我々の仲間を迫害するのだろう。あいつのために今まで暗々の中に、我々の仲間が何人、巧妙に退学させられたか知れない。我々盛中関係の牧民会員が、梅木と関係あったかどうかは、世間の勝手な推測にまかせるとして、とにかく癪にさわる。――という一項もある。
 これらの記事から見ても、牧民会を中心とする社会主義者に対して、かなり、いわゆる紳士閥の攻勢が高まり、また教育界でも生徒の思想傾向について、きびしい圧迫を加えてきつつあったかを知ることができる。
 この『梅木君』というのは、花巻の旧家生まれの梅木文夫といって、頭脳の鋭い秀才だったが退学後年余にして病歿した。
 彼について、作家石上玄一郎は次のような思い出を語っている。――
 『私の盛岡中学時代に、梅木という上級生が、構内弁論大会で〝崩壊せんとする世界〟という題で演説を行った。その内容は、間もなく極端な帝国主義戦争の時代が来るが、次第に資本主義の世界は崩壊してゆくだろう。そしてかならず社会主義の時代がやってくる。――という論旨で、まだ中学の低学年であった私は、彼の新鮮さと大胆さに驚き、勝つ深い感銘を覚えた。この梅木氏は、当時から社会主義団体の人びととも交遊があったせいか、とかく校内では社会主義者だというので白眼視されていた。その梅木氏のあり方が私のヒューマニテイを呼び、迫害者への同情と演説の内容から、私は次第に梅木氏の抱いている思想にひかれはじめたのであった』と。
         <『昭和33年6月14日付岩手日報』連載、鈴木彦次郎著「物語岩手社会運動史」より>
 この『梅木君』こそが、以前引用した名須川の論文の中の
 盛岡中学を退学させられた梅木文夫を中心に花巻の青年たちが、社会主義研究会を開いていたが、その青年たちが賢治を訪ねたり会合をもっていた。
に登場していた梅木文夫だったのだ。
 ちなみに、『白堊同窓会会員名簿』(昭和59年3月版)によれば、梅木文夫は盛岡中学大正13年3月、第38回卒業生名簿の中の〝卒業外会員〟となっているから、おそらく大正8年入学生となろう。となれば、大正8年に12歳のはずだから、梅木文夫はほぼ明治40年生まれとなろう。したがって、賢治より約11歳年下と考えられる。そのような梅木が賢治の許を訪ねたりしていたことになる。そういえば、賢治という人は自分と同年代というよりは、自分よりも一回り若い年下との交遊が多い傾向があと思うが、まさしく梅木はそのような人物の一人だったとも言えよう。
 また、上田重彦、すなわち石上玄一郎は昭和2年3月の卒業生だから、梅木よりも3学年下の後輩であったことが同名簿から知ることができる。

 なお、これで「物語岩手社会運動史」に関しての投稿は終わりにして次回からはまた元の道に戻りたい。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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