みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験(官憲からのマーク、八重樫賢師)

2015-09-27 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、ではここでは八重樫賢師のことを考えてみる。
(3) 八重樫賢師の場合
 名須川溢男は論文「賢治と労農党」において、
 同志は八重樫健志<*1>(故人、花巻市鍛治町、昭和三年秋陸軍大演習の時、天皇行幸のため―県公会堂大本営、紫波郡城山、花巻市日居城野は御野立所―他の労農党同志とともに危険人物と目をつけられ、逮捕を逃れるため函館に逃走、その地に死す)…
と述べているし、同じく川村尚三談として、
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『おれがかりてくれる』と言って宮沢町の長屋-三間に一間半ぐらい-をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
                <共に『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
もそこに載せている。また同じく名須川は、小館長右衛門談として、
 私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。
               <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265pより>
ということを紹介し、
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
               <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266pより>
とも述べている。
 というわけでこれだけの証言等がある以上は、
 八重樫賢師は労農党稗和支部の事務所運営費を賢治から預かって届けるような、賢治から教えを受けた若者で、下根子桜に賢治のような農園を開いていたのだが、「陸軍特別大演習」を前にして吹き荒れた昭和3年の凄まじい「アカ狩り」によって函館に追われた。……☆
とほぼ言えるだろう。

 一方で、私がいつもお世話になっている先輩TT氏から、
 私のおばが、
 『ある時、下ノ畑の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』
と言っていた。
ということを教えてもらったことがある。私はこのお話を伺って、この「鍛冶町のけんじ」とは、「八重樫賢師」その人に他ならないと推測した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」であり、私も「賢師」は「けんじ」と読むのだとばかり思っていたからである。
 そしてこの推測も含めて〝☆〟は、八重樫の実家を訪ねた(平成25年3月6日(水))ことによって私は確信に変わった。それは、その訪問によって家人から次のような証言を得たからである。
① まず八重樫賢師の「賢師」の読み方だが、私は今まではついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたが、〝けんし〟ですよと教わった。
② かつて、たしかに名須川溢男が来て義母から聞き取りをしていましたよ。その際傍にいてそのやりとりを聞いておりました。
③ 八重樫賢師は、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ参りました。
④ 函館の五稜郭の近くに親戚がおり、味噌杜氏をしていたのですがそこに身を寄せましたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなりました。
⑤ 農学校の傍で生徒みたいなこともしておったそうです。
⑥ 頭も良くて、人間的にも立派なお方だったと聞いております。
⑦ 賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたようです。
⑧ 昭和3年当時家の周りを特務機関の方がウロウロしていたものですよ、ということを隣家の方から教わったものです。
 そういえば、この「農学校の傍で生徒みたいなこと」についてだが、知人のAN氏から「賢師はあの国民高等学校の聴講生でもあったんですよ」ということを教えてもらった<*2>ことがあるが、このことに対応しているかもしれない。

 したがって、簡潔に言えば
 ・八重樫賢師は下根子桜に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていたが、昭和3年の「アカ狩り」によって函館に追放された。
と言えることがわかった。すると、先の賢治や甚次郎と同じ構図
 ・賢治も甚次郎も共にいわば「塾」を作って活動したが、その活動は両者とも社会主義思想(赤化思想)と見られて官憲からマークされた。
が八重樫にもあったと言える。一方、
 ・その結果、賢治は下根子桜から撤退したが、甚次郎はたまたま「有栖川宮記念更正資金」を授与されたので活動を続けることができた。
ということであったから、この構図に鑑みて同様な言い回しをしてみれば八重樫の場合は、
    ・その結果、八重樫賢師は函館に追放された。
と言える。

<*1:投稿者註>名須川は「宮沢賢治のその時代」(『宮沢賢治 童話の宇宙』所収)において、
私の「宮沢賢治について」(『岩手史学研究』第五十号)の論文で、「八重樫健志」としているが、誤りである。「八重樫賢師」と訂正する。
 なお、名須川は前掲書の中で八重樫に関して次のようなことも紹介している。
 その社会科学研究会は、花巻市桜の町営住宅(猫塚耕一借家)でおこなわれた。そばに刑事が見張りをしていた。時どき開かれたが梅木文夫が理論的な指導をしたようである。当時の参会者は今までに知り得たのは高橋慶吾、八重樫賢師、藤原清一、八重樫与五郎、猫塚耕一らであった。そばの町営住宅には一時的(?)だったか賢治がいたので、訪問したことなどもある。(昭和45年6月14日、猫塚耕一談)
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)111pより>
<*2:註>『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)の310pには、
    聴講生八重樫賢師、伊藤秀次
とある。

 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。
 続きへ
前へ 

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
                        【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】

 その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 焼石岳(9/23、東成瀬コース#3) | トップ | 私は耳を疑った »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事