みちのくの山野草

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賢治は「陸軍大演習」に際しても取調べを受けていた

2017-05-18 10:00:00 | 賢治渉猟
 では、賢治が受けたという昭和3年のあと1回の取調べとは何時のことであったのだろうか。そのことを探るためにもう一度前掲のDVDにおける梅野の回答を確認してみよう。それは、鳥山敏子の
 さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか。
という質問に対して、
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
            <『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中のDVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)より>
というものであった。

 では、そもそも梅野が「45日入れられて帰ってきた」という花巻警察署留置所での拘禁とは昭和3年の何時のことだったのだろうかというと、それは、「私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな」という発言に注目すれば、梅野は昭和3年のほぼおそらく10月頃から45日間拘禁されていたであろうことが導かれるし、しかも「別に何も調べもせずに」拘禁されていたということになるだろう。となれば、花巻警察署の梅野の長期間拘禁の目的は彼を世間から隔離して拘束しておきたかったからだということが当然考えられるし、するとそこで思い浮かぶのは、昭和3年10月に行われた「陸軍大演習」のことである。言い換えれば、
 梅野健造が花巻警察署留置所に45日間も、別に何も調べもされずに拘禁されていた訳は、昭和3年10月に行われた「陸軍大演習」への警察の対処のためであった。
という蓋然性が極めて高い。しかも、それ以外にこのような人物が拘束されるようなその時期の出来事は存在していないから、ほぼそう断言できるだろう。
 となればおのずから、梅野が「だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね」と言い、「それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね」とも言っていることから、
 賢治もこの「陸軍大演習」に関わって「2~3日警察に呼ばれて」取調べを受けた。
という蓋然性が高いことも導かれる。
 そうすると今度は、小原忠の論考「ポラーノの広場とポランの広場」が思い出される。そこには、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
               <『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4pより>
という記述があるからだ。
 つまり、梅野と小原の二人のこれらの証言から、
    賢治は昭和3年の「陸軍大演習」に際しても警察から取調べを受けていた。……①
と判断して間違いなさそうだということがわかることになる。

 さて、この時の岩手で初めて行われた「陸軍大演習」は、昭和3年10月6日の花巻の日居城野における御野立を皮切りに行われた訳だが、それを前にして行われた凄まじい「アカ狩り」によって、労農党員の(賢治と交換授業をしたことがある)川村尚三や(賢治と親交のあった青年)八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。したがって、賢治自身も同様に警察からの圧力が避けられなかったことは当然考えられるわけで、梅野が「宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね」というところの取調べとはその際のものであったであろうことが容易に察しがつくから、〝①〟の妥当性がさらに裏付けられよう。
 どうやらこうなると、梅野は
 それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
と答えてるから、昭和3年8月頃の凄まじい「アカ狩り」に際して、「宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね」「それで2~3日で帰され」たということになりそうだし、梅野は「別に何も調べもせずに」花巻警察署の留置所にこの時期45日間拘禁されていたということになりそうだ。そして一方で、このように考えれば多くの疑問が私にはすんなりと解消できることにも気付く。

 つまるところ、
 後もう一回の賢治が受けた昭和3年の取調べとは「陸軍大演習」に関わるもので、時期は同年8月頃の凄まじい「アカ狩り」が行われた頃で、2~3日で帰されはしたものの花巻警察署に呼ばれていたというものであった。
と判断してもほぼ間違いなさそうだ。

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