梅野健造の証言
これについては以前から私は知っていたことだが、梅野健造は「賢治との出会い」という追想の中で、
と述べている。
となれば、賢治は昭和3年4月前後に花巻署から取調べを受けたであろう蓋然性が極めて高そうだ。しかもそのことで羅須地人協会を解散したということであれば、その取調べは相当厳しいものであったという可能性も高い。またこのことからは、それだけではなく、「昭和三年二月」以前にも賢治は「取調を受けた」ということもまた言えそうだ。
一方で、最近になって次のようなことも梅野が語っていたということを新たに私は知った。それは、鳥山敏子の
さて、この梅野と鳥山のインタビューにおける一連のやりとりをDVDで観ながら私は、今までは「賢治と労農党」に関する「事実」の記述は基本的には名須川溢男の論考によるものしか私は知らなかったのでその信憑性に一抹の不安があったのだが、その「事実」の信憑性が高いということを、そして同時に梅野のこの証言も同様にそうであることを確信した。それはこの二人名(須川と梅野)の証言の間には矛盾がないし、補完し合うからだ。
こうなると、賢治はこの「解散命令」に関わって何回か警察に呼ばれていたということの蓋然性が高いし、どうやらそれは計3回であったと判断してもほぼ間違いなさそうだ。では、その3回とは何時のどんなものだったのだろうか。
これについては、「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか」という質問を受けての回答が「2回か3回、3回だろうな、呼ばれた」であることに注意して、これらの二つの証言から常識的に判断すれば、
・昭和3年3月15日(3・15事件)前後(昭和3年2月頃も含めての)
・昭和3年4月10日前後(労農党解散命令)
がその3回のうちのの2回であった蓋然性が高いことが容易に予想がつく。
では、後の1回は昭和3年の何時頃だったのだろうか。
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これについては以前から私は知っていたことだが、梅野健造は「賢治との出会い」という追想の中で、
昭和三年四月、労農党の主張は危険思想であるとする政府・取締当局の弾圧により本部・全国支部は解散された。これと前後して羅須地人協会は農民を思想的に指導しているとして賢治は花巻署に召喚・取調べを受け、やむなく協会を解散するに至った。
その頃、健康を害していた私は一年あまり続いた〝無名作家〟を休刊していたが、昭和三年二月積雪深い桜の山荘に賢治を訪問した。案内された二階で炬燵を囲んだが精神的な苦悩から顔色が勝れなかったが相手をそらさない笑顔が痛々しく感じられた。
私は暫くの無音を謝し、その後の文芸活動の足どりや文学上の諸問題について教えを乞いながら語ったが偶々羅須地人協会の解散に触れると
-誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい-
と静かにその決心を述べられた。私は更に中央に興りつつあるプロレタリア文学運動にいて説明し、文学の時代性は理解しているが、いまはこれらに捉われないで真の道を索めたい、と心境を率直に語り、総合誌〝聖燈〟の発刊を準備中であることを告げると、深く頷かれ
-それでいい、それで結構だと思う…-
とやさしく共感を示され〝聖燈〟創刊号に〝稲作挿話〟を寄稿されたのであった。
<『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)9p~より>その頃、健康を害していた私は一年あまり続いた〝無名作家〟を休刊していたが、昭和三年二月積雪深い桜の山荘に賢治を訪問した。案内された二階で炬燵を囲んだが精神的な苦悩から顔色が勝れなかったが相手をそらさない笑顔が痛々しく感じられた。
私は暫くの無音を謝し、その後の文芸活動の足どりや文学上の諸問題について教えを乞いながら語ったが偶々羅須地人協会の解散に触れると
-誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい-
と静かにその決心を述べられた。私は更に中央に興りつつあるプロレタリア文学運動にいて説明し、文学の時代性は理解しているが、いまはこれらに捉われないで真の道を索めたい、と心境を率直に語り、総合誌〝聖燈〟の発刊を準備中であることを告げると、深く頷かれ
-それでいい、それで結構だと思う…-
とやさしく共感を示され〝聖燈〟創刊号に〝稲作挿話〟を寄稿されたのであった。
と述べている。
となれば、賢治は昭和3年4月前後に花巻署から取調べを受けたであろう蓋然性が極めて高そうだ。しかもそのことで羅須地人協会を解散したということであれば、その取調べは相当厳しいものであったという可能性も高い。またこのことからは、それだけではなく、「昭和三年二月」以前にも賢治は「取調を受けた」ということもまた言えそうだ。
一方で、最近になって次のようなことも梅野が語っていたということを新たに私は知った。それは、鳥山敏子の
さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか。
という質問に対して、この梅野はまず『2回ほど花巻の警察にね』と答え、続けて次のように語っているということをである。 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。
私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
<『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中のDVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)より>だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。
私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
さて、この梅野と鳥山のインタビューにおける一連のやりとりをDVDで観ながら私は、今までは「賢治と労農党」に関する「事実」の記述は基本的には名須川溢男の論考によるものしか私は知らなかったのでその信憑性に一抹の不安があったのだが、その「事実」の信憑性が高いということを、そして同時に梅野のこの証言も同様にそうであることを確信した。それはこの二人名(須川と梅野)の証言の間には矛盾がないし、補完し合うからだ。
こうなると、賢治はこの「解散命令」に関わって何回か警察に呼ばれていたということの蓋然性が高いし、どうやらそれは計3回であったと判断してもほぼ間違いなさそうだ。では、その3回とは何時のどんなものだったのだろうか。
これについては、「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか」という質問を受けての回答が「2回か3回、3回だろうな、呼ばれた」であることに注意して、これらの二つの証言から常識的に判断すれば、
・昭和3年3月15日(3・15事件)前後(昭和3年2月頃も含めての)
・昭和3年4月10日前後(労農党解散命令)
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では、後の1回は昭和3年の何時頃だったのだろうか。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守
電話 0198-24-9813
なお、本書は拙ブログ『宮澤賢治の里より』あるいは『みちのくの山野草』に所収の、
『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
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