みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

三者の身の処し方の違いはあれど

2017-05-19 10:00:00 | 賢治渉猟
 さてこれで、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』所収のインタビューにおける梅野健造の回答から、昭和3年10月に行われた「陸軍大演習」に関わって、
 梅野:同年10月頃から花巻警察署留置所に45日間も、別に何も調べもされずに拘禁されていた。
 賢治:同年8月頃、2~3日の間花巻警察署に呼ばれていたという蓋然性が極めて高い。
ということがわかった。一方で、名須川溢男の論文「賢治と労農党」によれば
 八重樫賢師:陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放
ということであった。
 すると興味深いことは、これらはいずれも昭和3年の「陸軍大演習」に際しての対応になるわけだが、対応の仕方には違いがあったということである。まず、
    梅野:強制的に長期間留置所に拘禁された。
    八重樫:警察からの厳しい圧力があって花巻に居ることが困難となり函館に奔った(所払いされたとも言われている)。
と解釈できるわけだが、では賢治はどうだったかというと、形態としては、
    賢治:病気になったので昭和3年8月10日に豊沢町の実家に、以後病臥。
と巷間言われてはいる。よって、前者二人は、自分が望んだわけではないのにそれまでと同じような社会生活が外的強制力によってできなくされてしまったのだが、後者の場合には自分の都合でそうしたということになる。しかし、この三者の場合はいずれも同じ「陸軍大演習」に関わっての身の処し方であったという見方の方が常識的な見方であろうから、賢治に関しては形態としてはそうであったとしても、その真相としては当然別な解釈もできる。

 ではそれはどのような解釈ができるのかということを次に述べたい。このことに関連しては、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において、私は次のような仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。
を立てみたところ、それが妥当であるということは既に検証できている。つまり、「仮説検証型研究」によって、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、外部には病気ということにして賢治は実家でおとなしくしていた。
というのが下根子桜撤退の真相であったと判断してよいことがわかった。なぜならば、この仮説に対する反例を私は今のところ誰からも突きつけられていないからである。
 どうやら、かつて浅沼稲次郎が、
(早稲田警察の特高から)『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。
            <『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
のと同じように、賢治豊沢町の実家でおとなしくしていたと言えそうだ。
 つまり、
 昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にした夏に岩手では凄まじい「アカ狩り」が行われ、警察によってあるいはその厳しい圧力によって梅野、八重樫、賢治の三者は少なくとも同演習が終わるまでそれぞれ、梅野は留置所に長期拘禁、八重樫は所払い、賢治は実家にておとなしくしていた。
という解釈ができよう。三者の形態は違えども、警察によっていずれの三者共にもそれまでと同じような社会生活ができなくされていたと言えるだろう。言い換えれば、この三者はともに「陸軍大演習」を前にして警察からの強い圧力があったのだが、それに対する対処の仕方が違っていただけだった、という蓋然性が極めて高い。

 とりわけ、賢治に対してどうしてそのような解釈ができるのかということは、いみじくも賢治のある書簡がそれを示唆している。
 宮澤賢治研究家の殆ど誰もが、賢治が教え子澤里(高橋)武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)中に、
   盛岡市外 岩手県師範学校寄宿舎内 高橋武治様
…(略)…やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
             〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)〉
というように登場してくる「演習」について追究していおられない。せいぜい私が知る限りでは、管見故か、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)が、   
 盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と註釈しているだけだ。しかもこの註釈には説得力が乏しい。
 それは、この「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」に関しては、『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
             〈『花巻の歴史 下』(及川雅義著)67p~〉
となっているから、下根子桜に建てられた「工兵廠舎(花巻演習場廠舎)」に盛岡の工兵隊等が来舎して架橋演習が行われた期間は「七月下旬~九月上旬」であったということになるので、矛盾が生ずるからだ。
 もう少し説明を付け加えると、この『花巻の歴史 下』の記述に従えば、賢治が澤里に宛てた書簡(243)の日付は9月23日だからこの時点では既にこの「架橋演習」は終わっていたことになるし、一方で、同書簡の文章表現「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」からすれば、9月23日時点では賢治はまだ根子(「下根子桜」)に戻っていないことは明らかだからである。つまり、賢治が同書簡にしたためたところの「演習」はまだ終わっていなかったことになるのでこのこの「架橋演習」のことであるとは言えず、この書簡の中に出て来ている「演習」とはこの註釈に述べられているような「架橋演習」のことではなく、別の「演習」を指しているという蓋然性が高いということを賢治自身が教えてくれているということになる。しかもその「演習」とは、このままでも教え子にも充分通ずるようなそれであるということも、である。そしてこの書簡のあて先は
    盛岡市外 岩手県立師範学校寄宿舎内
となっているのだから、この「演習」とは当時広く県民に知られていたものであろうということもまた、同書簡は教えてくれている。

 そこで当時の新聞を見てみる「陸軍大演習」やそれに関わる「特高設置」等の報道がしばしば大々的になされていたから、その「陸軍大演習」のことを当時県民はよく知っていて、しかもそれを「演習」と略称していたであろうことは想像に難くない。また、その写真集絵葉書も沢山発行されていたから、そのことはなおさらにである。
 逆に言えば、賢治研究家が本気になって調べようとしたのであれば、この「演習」とは「架橋演習」のことなどではなくて「陸軍大演習」のことであったと判断するのが妥当だということに容易に気付くはずなのだがそうでないという状態が今でも続いているということは、怠慢かあるいはそこに深入りしたくないかのどちらかだからだと揶揄する方もあるかもしれないなと、私は懸念する。

 とまれ、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』所収のインタビューにおける梅野健造の回答は、
 この書簡の「演習」とは「陸軍大演習」のことを指しており、賢治はこの「演習」が終わるまでは実家に戻っておとなしくしていたが、それは警察からの圧力に対しての身の処し方であった。
ということが妥当な判断であるということを、さらに強力に裏付けてくれたと言えるだろう。

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