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《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)
まず確認しておく。「沢里武治氏聞書」に相当するものが載っている、公の出版物は時系列に従えば下掲のとおりである。
⑴ 「澤里武治氏聞書」:『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年2月5日発行、60p~)
⑵ 「セロ㈠、㈡」:『宮澤賢治物語』(関登久也著、『岩手日報』、昭和31年2月22日~23日連載)
<関登久也没 昭和32年2月15日 >
⑶ 「沢里武治氏からきいた話」:『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行、217p~)
⑷ 「沢里武治氏聞書」:『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年2月20日発行、125p~)
そしてここまで、⑴~⑶についてはそれぞれの中身を眺めてきた。そしてそれぞれについて気になったことは、⑵ 「セロ㈠、㈡」:『宮澤賢治物語』(関登久也著、『岩手日報』、昭和31年2月22日~23日連載)
<関登久也没 昭和32年2月15日 >
⑶ 「沢里武治氏からきいた話」:『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行、217p~)
⑷ 「沢里武治氏聞書」:『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年2月20日発行、125p~)
⑴ 「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます」の「確か」
⑵ 「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが」の「どう考えても」
⑶ 新聞連載の『宮澤賢治物語』では、
昭和二年には先生は上京しておりません。 …………①
という記述だったのだが、単行本の『宮澤賢治物語』では、
昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………②
という改竄
等であった。⑵ 「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが」の「どう考えても」
⑶ 新聞連載の『宮澤賢治物語』では、
昭和二年には先生は上京しておりません。 …………①
という記述だったのだが、単行本の『宮澤賢治物語』では、
昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………②
という改竄
さてでは今回の〝⑷ 「沢里武治氏聞書」:『賢治随聞』〟ではどうなっているのだろか。つまり、『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』が、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と註記していた「関『随聞』二一五頁の記述」はどうなっているのかというと、次のように、【Ⅳ 「沢里武治氏聞書」:『賢治随聞』】
沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいゝいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかかからぬよう、指は直角にもっゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。
セロについての思い出されることは、先生は絶対に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかったことです。何か尊貴なもののように、セロにだけは手をふれされることはありませんでした。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいゝいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかかからぬよう、指は直角にもっゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。
セロについての思い出されることは、先生は絶対に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかったことです。何か尊貴なもののように、セロにだけは手をふれされることはありませんでした。
となっているから私は首を傾げた。それは、この記述内容は前回の投稿〝「沢里武治氏からきいた話」:『宮沢賢治物語』〟におけるものとは違っていて、上掲の「改竄」のような記述は見られないからだ。
そして次に気付いたことは、この「関『随聞』二一五頁の記述」は、
【Ⅰ「澤里武治氏聞書」:『續 宮澤賢治素描』】
澤里武治氏聞書
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)、60p~〉確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
と、旧仮名遣いと新仮名遣いの違いはあるものの、同じものであることにである。ただし見落としてならないことは、【Ⅰ】と【Ⅳ】の間で違っている箇所は赤色文字にしておいた箇所であり、今回は、これらの「沢里武治氏聞書」に関しては、
〝確か〟→〝○……〟
という、新たな改竄が行われているということをである。
一方で、この『賢治随聞』の「あとがき」では、
願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。………★
と懇願していて、ここで「前二著」とは『宮澤賢治素描』と『續 宮澤賢治素描』のことだというから、奇妙なことだ。この「関『随聞』二一五頁の記述」はまさに『續 宮澤賢治素描』の「澤里武治氏聞書」そのものと言えるので、自家撞着していると言えるからだ。なおかつ、この要望「★」どおりに、『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』は「関『随聞』二一五頁の記述」を引例しているわけである。他ならぬ筑摩書房であれば、「必ず一次情報に戻る」ということは基本中の基本だと思うのだが(この場合は、「沢里武治氏聞書」の初出の〝⑴〟、即ち:『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」に戻ることが基本のはずだが)、「初出」どころか、それと全く逆の、いわば「後出」の〝⑷〟によって引例しているのである。正直、私は言葉を失ってしまう。
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