みちのくの山野草

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柳原昌悦のある証言

2021-05-04 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、前回の投稿〝「大正15年12月2日」の定説の修訂が必要〟において、
 当然、現定説
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
は修訂されねばならない。
と私は主張したのだが、ではどう修訂すればよいのか。それは、反例のある上掲のような「現定説」を『旧校本全集』でも『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』でも掲げた来たわけだし、それも、
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その根拠を読者に示さずに断定して来たわけだから、もはや棄却せねばならなくなった「現定説」に替わる新たな仮説の定立は筑摩書房が責任を持って行ってくれるだろうから、その新たな仮説の定立と、その検証結果の公表をお待ちしたい。

 ただし、私が現時点で言っておきたいことは、
 「現定説」は「(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る」ということになっているわけだが、この中の赤文字部分「セロを持ち」と「武治がひとり見送る」については、それを裏付ける資料や証言などはないのだから、少なくともこのれらの修訂は必須だ。
ということである。
 というのは、平成23年11月26日のことだが、実証的な宮澤賢治研究家として知られている菊池忠二氏から
 「下根子桜時代」の賢治の上京について、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
という証言を柳原昌悦本人から直接聞いている。
ということを私は教わっているから、なおさらにである。
 さて、では柳原が言うところの「あの日」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば「現定説」の、「セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」に対する日、すなわち大正15年12月2日であることは直ぐに判る。つまり、「現定説」では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も澤里と一緒に賢治を見送っていた、ということを職場の同僚でもあった菊池忠二氏に対して柳原が証言していたのである。

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