みちのくの山野草

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『大正15年11月に賢治は上京した』は無理筋

2021-05-02 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、私としては検証できた、
 〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
に対しては一時期、宮沢賢治奨励賞者H氏を中心として数人からクレームを頂戴したが、拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』は入沢康夫氏から慫慂があったので出版したものですと伝えた後はクレームはなくなった。
 一方で、この〈仮説2〉(=「賢治昭和二年上京説」)を否定せんがためであろうか、突如『大正15年11月に賢治は上京した』と主張し出したH氏だが、それに対して私は、
 そのユニークな新仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をご自身で検証なさってその論考を公にすればいいでしょう。
と助言した。だが、その直後もそれ以降もこの新仮説『大正15年11月に賢治は上京した』をH氏が検証できたという連絡は私にはないし、それに関する論考を発表したとも聞いていない。

 しかしそれは、私からすれば自明のことである。というのは、当時の賢治年譜(大正15年11月~昭和2年2月)

を見てみれば、「大正15年11月に上京した」賢治が3ヶ月間も滞京することは、「分身の術」でも使えない限り不可能であることは自明だからである。なおこれが、約一年後の賢治年譜、

であれば、昭和2年11月4日~昭和3年2月8日の間には「3ヶ月間」以上の空白があるから、「昭和2年11月頃に上京した」賢治は「分身の術」を使わずとも3ヶ月間の滞京が可能であることは明らか。

 そしてそもそも、これに関する証言の「初出」は『續 宮澤賢治素描』の「澤里武治氏聞書」であり、そこには、
  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~>
と澤里は証言しているのである。しかも、「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます」というように確信を持ってである。どこにも、それは「大正15年11月」のことだったなどとは言っていない。逆に、「先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました」ということも証言しているのだから、安易に「証言」を変更したり、「三ヶ月間」を無視したりすることは、さて、如何なものか。
 言い換えれば、H氏はこの「三ヶ月間」の重要さに気づかなかったのか、あるいは敢えて無視しようとしたのかのいずれかであった、ということになろうが、『大正15年11月に賢治は上京した』という主張は、かくの如くもともと無理筋なのである。

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