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㈦「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」

2017-06-04 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』






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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 ㈦「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 最後に、賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説だと私は認識していたが、先の『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気や気温を、更には賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この通説を否定するものが多かったので、どうやらこれもおかしいということに気付いた。
 一方、賢治が教え子澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
 やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし「すっかりすがすがしくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと云われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ「下根子桜」に戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたであろう。ところが実はそうではなく、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと澤里に伝えていたことになるから、常識的に考えてこれもまたおかしいことだということに気付いた。同時に、実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気ではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも考えられる。
 ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~>
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの昭和3年10月に岩手で行われた「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言しているということだし、上田仲雄や名須川溢男等によれば、この時の「アカ狩り」によってその労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。
 しかも高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(同書49p)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも窺える。
 そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)30p )ことを偶然知った私は、次のような仮説、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習が終るころ」までは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とは時期的にピッタリと重なっていることだ。その上この反例は一つも見つからなかったから、この仮説の検証がなされたことになる。
 よって今後この反例が見つからない限りは、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったと、そして、賢治は重病だということにして実家にて「おとなしくしていた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとしてよいことになった。
(詳細は拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の中の章「「羅須地人協会時代」終焉の真相」を参照されたい)

 さて、こうして約10年をかけて主に「羅須地人協会時代」の賢治のことを私は調べてきた訳だが、その結果いくつかの「真実」を明らかにできたり、おかしかったことはやはりおかしかったということなどを実証できたりした。それ故結果的には、いわば「賢治神話」のいくつかを検証したとも言える。そして、これらの一つ一つが恩師岩田教授が嘆いたあの「いろいろなこと」に当たっているのかと私は得心し、幾ばくかは恩師に恩返しができたものと思って今はひとまず安堵している。

  3. 「賢治研究」の更なる発展のために
 ただし正直言えば、私のこれらの検証結果の方が実は「真実」ではなかろうか、ということをもっと広く世に訴えることのできる機会と場があればいいなと思わないでもない。とはいえ、これらの検証結果は「通説」とは異なるものが多いし、たとい「仮説検証型研究」という研究手法で検証できたからといってそれが100%正しいと言えるのかと訝る人も多かろうから、今直ぐにはそれは無理だろうということは承知している。
 そしてそんなことよりも、私自身がまずは真実を識りたいという一念だったから、自然科学者の端くれとして、「仮説検証型研究」等によっていくつかの「真実」を明らかにできたことだけで自己満足できたし、それで十分な約9年間だった。しかも結果的にではあるが、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはストイックで、貧しい農民のために献身した」と以前の私は思い込んでいたが、一連の実証的な考察結果から導かれる賢治はそれとは違っていて、それこそ「不羈奔放」だったとした方が遥かにふさわしい面もあるのだということも識ることができ、《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》より近づいたということで私自身はとても嬉しかった。

 ところが1年半程前に、ある式辞を知ってからはこのままではいけないと私は考えを改めることにした。その式辞とは、平成27年3月の東京大学教養学部学位記伝達式における学部長石井洋二郎氏の式辞のことであり、その中で同氏は、あの有名な「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを検証してみたところ、
 早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
という思いもよらぬ結果となったことを紹介していた。私は愕然とした。それこそ「この幻」を信じてきたからだ。
 そして石井氏は続けて、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
と戒め、警鐘を鳴らしていた。
 私はこの式辞を知って、賢治に関する「通説」や「年譜」のいくつかにおいてまさに石井氏の指摘通りのことが起こっていると首肯し、共鳴した。確かにこれらの中にはあやふやな情報を裏付けも取らず、あるいは検証もせぬままに、それが真実であるかの如くに断定調で活字にして世に送り出されたものなどが少なからずあることを、ここ約10年間の検証作業等を通じて私は痛感してきたからだ。
 例えば、先の〝㈣〟の場合、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」はあやふやな情報なのだが、当時の盛岡測候所長の証言であるという「真実の衣を着せられて」その証言が「賢治年譜」に載せられてしまうとたちまち「世間に流布して」しまい、「もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります」ということがまさに起こっているように。
 更に石井氏は続けて、
 本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。
と懸念している。そして確かにその通りで、
・昭和二年は…(筆者略)…未曾有の大凶作となった。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような、先の測候所長の事実誤認の証言を露ほども疑わずに、鵜呑みしたかの如き記述が今でも横溢している。
 さりながら、この実態を今更嘆いてばかりいてもしようがない、そのような批判精神を今後作動させればよいだけの話だ、ということもまた私は石井氏から気付かされた。そこでこれからは、自己満足という殻に閉じこもってばかりいないで、間違っていることは間違っていると世にもっと訴えるべきだと私は考えを改めたのだ。
 そしてこのことは、実はこの式辞を知って、今までの私のアプローチの仕方は間違っていないから自信を持っていいのだと確信できたことにもよる。それは、石井氏は同式辞を、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
と締めくくっているのだが、次のようなことから、この「本質」と私のアプローチの仕方は通底していると認識できたからだ。
 以前から私は、「学問は疑うことから始まる」と認識していたので、一般に「賢治に関する論考」等においては、裏付けも取らず、検証もせず、その上典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が多過ぎるのではなかろうかということを懸念していた。そこで私は、自分で直接原典に当たり、実際自分の足で現地に出かけて行って自分の目で見、そこで直接関係者から取材等をしたりした上で、自分の手と頭で考えるというアプローチを心掛けてきた。そしてその結果、前掲の〝㈠~㈦〟などのような、特に「羅須地人協会時代」の賢治に関してのあやかしや、知られざる「真実」のいくつかを明らかにできたものと思っている。

 とはいえ、私の主張が全て正しいと言い張るつもりはない。例えば、私が定立した仮説が検証できたといっても、所詮仮説に過ぎないからだ。しかし、私の場合の検証は定性的な段階に留まらずにできるだけ定量的な検証もしたものだ。だから当然、反例が提示されれば私は即その仮説を棄却するが、されなければしない。ましてや、『新校本年譜』には前掲の「三か月間の滞京」を始めとしていくつかの反例が現にあり、一方で、それに対応する私の立てた仮説には反例が存在しないから、同年譜は修訂が不可避だと言わざるを得ない。
 そこで私は今までの考え方を改め、何よりも「賢治研究」の更なる発展のために、おかしいところはやはりおかしいと、粘り強く主張し続けることにした。それはもちろん、私達がそのことを怠れば「賢治研究」のさらなる発展が望めないということは歴史が教えてくれているところだからでもあり、もしかすると、「創られた偽りの宮澤賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまう虞もあるからだ。
 ついては手始めに、
『新校本年譜』の、少なくとも「羅須地人協会時代」については早急に再検証せねばならない実態にある。
ということを声を大にして言い、まずは問題提起しておきたい。
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