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「牧民会・啄木会と賢治」(前編)

2019-01-11 12:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 それでは、今回からは名須川溢男の論文「近代史と宮沢賢治の活動」の最初に戻って、八重樫賢師に注意しながら同論文を見て行きたい。

 まずは、この論文は
    平成九年(一九九七)二月・稿了
ということであり、名須川はこの論文の「一 はじめ」において、それまで彼が公にしてきた論文を列挙していた。
一 はじめに
 ちなみにそれは、
〇「宮沢賢治について」(岩手史学会編『岩手近代百年史』所収論文・一九六七(昭和四二)・岩手史学研究五〇号記念)
〇「宮沢賢治とその時代」(「岩手史学研究」五五号、一九七〇(昭和四五)、『日本文学研究資料新集・宮沢賢治童話の宇宙』一九九〇・有精堂所収)
〇「賢治と労農党」(「国文学特集宮沢賢治研究」昭和五〇年四月号(20巻5号)学燈社、『鑑賞日本現代文学⑬宮沢賢治』原子朗編所収・昭和五六年・角川書店)
〇「宮沢賢治の活動と歴史的背景」(「賢治研究20」宮沢賢治研究会・一九七八・六)
            〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)460p〉
の4編であるということを知った。幸い私は全て持っていた。
 そして、今までの論文ではまだ述べていない点やその後に新しく発見された資料などによって、さらに宮沢賢治の活動について述べたのがこの論文だと名須川は言って、次の項「二 牧民会・啄木会と賢治」をスタートさせていた。
 
二 牧民会・啄木会と賢治
 名須川はこう言う。このことに関しては既に「宮沢賢治とその時代」において論じているのだが、それをこの項でさらに詳述するのだと。具体的には、名須川はまず松本政治と石川準十郎の文章をそれぞれ引用しながら、
 (賢治は)その時代の社会問題について真剣に考え、行動していたのであった。

   悲劇の啄木と秋浜さん
                                                          松本政治
(前略)牧民会は社会主義研究団体。石川金次郎氏令弟準十郎さん(後早大教授)によると、詩人宮沢賢治さんも前後、牧民会に出入りしていたという。
秋山さんとの交遊はその日以来である。当時、啄木碑を訪れるものの身辺には警察の目がきびしく光るのであった。啄木を思慕するいろんな人物が続々とやって来る。そのたびに秋浜さんは、啄木の教え子代表格でガイド役に引き出され、そのため警察がとてもうるさかった。…(投稿者略)…

 牧民会と賢治について石川準十郎は次のように述べている。

賢治さんは、盛中を出て今の岩手大学の前身、盛岡高等農林学校にはいり、私は東京へ出て早大政治科にはいって、学校では「読書会」という社会主義研究会を作り、郷里では兄たちと「牧民会」という団体を作ったりして、あっぱれ一かどの警察の要視察人となっていたが、賢治さんはその私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた。
 彼はそのころはすでに高農を卒業して同校の助手を勤めていたが、彼も私と同じく社会問題=思想問題にいろいろと悩んでいたらしい。ソウでなければ、社会主義者として一般世間には不良視されている私などたずねてはくれなかったであろう。今でこそ社会主義といっても別にだれも驚きもせず、場合によってはかえって立身出世の手段とされ得るのであるが、当時はなお社会主義といえば火付けや泥棒の類に考えられていたのだ。…(投稿者略)…
                                              (「啄木と賢治さん」石川準十郎(元早大教授)岩手日報 昭和四四年八月二一日)
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)461p~〉
と述べている。つまり、石川準十郎が、
    ・賢治は牧民会に出入りしていた。
    ・石川が夏休みで帰盛すると、時々賢治がヒョッコリと訪ねて来た。

と証言していたということになる。ただし、私は幸いこれらのことについては既に知っていた<*1>。

 さらに名須川はこう続けていた。
 ところでこのたび大正一〇年(一九二一)七月に、賢治が東京において在京岩手県人会が結成した「啄木会」に同志五三人とともに加入している資料が見つかったという。…(投稿者略)…
 賢治の文学作品には、啄木の影響が多くみられることは、これまで指摘されているところでもあるが、啄木会にも参加していたことがこれで確認できる。
             〈同462p〉
 この件についても私はたまたま既に知っていた<*2>。したがって、名須川のこの論文のここまでの部分に限っては、新たに知った事柄は基本的にはなかった。

<*1:註> 前者については〝469 賢治は「牧民会」にも出入り〟において、私は次のような引用をした。
 昭和45年4月11日(土)4面
   「悲劇の啄木と秋浜さん」 松本 政治(盛岡啄木会会長)
 あの日の帰りに、私どもは好摩駅の夕方発の汽車に乗り遅れてしまった。その夜、石川金次郎さん(後の社会党代議士)らの牧民会同志たちが歓迎会を開いてくれることになっていた。夜まで汽車がない。宮君は夜の汽車を待つことにし、米内君と私は、いきなり国道すじをまっしぐらにかけ出したのであった。
 盛岡までは二十一㌔余、夜八時すぎ、ふたりはグロッキーになって、やっと歓迎会場にたどりついた。牧民会は社会主義研究団体。石川金次郎氏令弟準十郎さん(後早大教授)によると、詩人宮沢賢治さんも前後、牧民会に出入りしていたという。
 秋山さんとの交遊はその日以来である。当時、啄木碑を訪れるものの身辺には警察の目がきびしく光るのであった。啄木を思慕するいろんな人物が続々とやって来る。そのたびに秋浜さんは、啄木の教え子代表格でガイド役に引き出され、そのため警察がとてもうるさかった。
 そして後者についても、〝496 石川準十郎によれば〟において、次のような引用をしていた。
 賢治さんは、盛中を出て今の岩手大学の前身、盛岡高等農林学校にはいり、私は東京へ出て早大政治科にはいって、学校では「読書会」という社会主義研究会を作り、郷里では兄たちと「牧民会」という団体を作ったりして、あっぱれ一かどの警察の要視察人となっていたが、賢治さんはその私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた。
 彼はそのころはすでに高農を卒業して同校の助手を勤めていたが、彼も私と同じく社会問題=思想問題にいろいろと悩んでいたらしい。ソウでなければ、社会主義者として一般世間には不良視されている私などたずねてはくれなかったであろう。今でこそ社会主義といっても別にだれも驚きもせず、場合によってはかえって立身出世の手段とされ得るのであるが、当時はなお社会主義といえば火付けや泥棒の類に考えられていたのだ。             <『岩手日報』(昭和44年8月21日付)より>
<*2:註> 以前〝賢治と宮澤安太郎と佐伯慎一〟において、私は次のようなことを引用していた。
 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の335pに次ような〔啄木会成立宣言文〕なるもの、
△啄木会は遂に成立した。在京の純粋故郷出身の青年□五十余名を以て、
△七月十四五日頃盛岡で文学講演会を開く。出来るならば建碑費の幾分を儲けたいのだが結局は只我等の啄木運動プロパガンダに終わるだらう、費用が多くかヽるだらうから。…(投稿者略)…
     啄木会同志名(順不同)
石川準十郎、石川斌、木村不二男、船越一郎、村井源一、佐伯慎一、宮沢安太郎、高橋大作…(略)…深沢省三…(略)…宮沢賢治…(略)…
〔注〕大正十年六月十八日に結成された「啄木会」関係資料のひとつ。結成時に頒布されたものと思われる。
が載っていた。

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               電話 0198-24-9813

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