みちのくの山野草

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賢治と宮澤安太郎と佐伯慎一

2015-03-06 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
〔啄木会成立宣言文〕
 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の335pに次ような〔啄木会成立宣言文〕なるもの
△啄木会は遂に成立した。在京の純粋故郷出身の青年□五十余名を以て、
△七月十四五日頃盛岡で文学講演会を開く。出来るならば建碑費の幾分を儲けたいのだが結局は只我等の啄木運動プロパガンダに終わるだらう、費用が多くかヽるだらうから。…(投稿者略)…
     啄木会同志名(順不同)
石川準十郎、石川斌、木村不二男、船越一郎、村井源一、佐伯慎一、宮沢安太郎、高橋大作…(略)…深沢省三…(略)…宮沢賢治…(略)…
〔注〕大正十年六月十八日に結成された「啄木会」関係資料のひとつ。結成時に頒布されたものと思われる。
が載っていた。
 さて、この〔啄木会成立宣言文〕は大正10年に作られたもののようだ。たしかに、賢治は大正10年には上京・しばし滞京していたから「在京の純粋故郷出身の青年」に賢治は当てはまる。なるほどと思って見ていたのだが、その会員の中に「宮沢安太郎」の名を見つけた私は、そうか賢治の従弟の彼もメンバーだったのかと驚いた。そいえば、この大正10年の滞京中賢治は本郷の「稲垣方」に間借りしていたわけだが、そのころ従弟の安太郎も一時その稲垣方に止宿していたことが知られている。賢治と安太郎が共に「啄木会」に入会したことは不自然ではない。
 そしてあれっと思った。その安太郎の名前の直ぐ上の「佐伯慎一」とはもしかすると佐伯郁郎のことではなかろうかと。なぜならば、佐伯郁郎をよく知るある方から以前、 
 例の大正15年7月25日面会謝絶に関しては、賢治と白鳥達が会ったらいいのではなかろうかと周旋し、間を取り持ったのが宮澤安太郎である。そして、宮澤安太郎と佐伯郁郎は在京県人会でお互いに交流があったようだ。
ということを聞いていたからだ。どうやら、郁郎と安太郎は「啄木会」を通じても交流があったようだ。
 さらには、郁郎は『春と修羅』を安太郎から貰ったと証言している。ちなみに、郁郎は昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』朝刊において、
 ◇読んでいく中に随分なつかしい顔にも出逢ひました。啄木はいはずもがな、堀越夏村氏は学校の先輩とも聞いてゐて遂にお目にかゝれないでしまつたし、宮沢賢治氏にはお目にかゝつたことがないのですが御親類の安太郎さんを通じて「修羅と春(ママ)」をいたゞいてゐます。
と述べていることを私は以前に知っていたからだ。そして調べてみたならば、やはり予想どおりであり、

     佐伯郁郎の本名はやはり佐伯慎一であった。<『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)60pより>

 この「啄木会」メンバーの最初が「石川準十郎」で始まっていることは当然であり、そして6番目に慎一(郁郎)、続いて7番目が安太郎となっていることに鑑みれば、慎一も安太郎も案外早い時期にこの会に参加し、それも二人が並んで書いてあるということは、この二人は連れだって加入したということが考えられそうだし、少なくとも郁郎と安太郎はかなり昵懇な間柄であったということがこれで私自身は得心できた。

多面体な賢治
 そして、この石川準十郎は
 郷里では兄たちと「牧民会」という団体を作ったりして、あっぱれ一かどの警察の要視察人となっていたが、賢治さんはその私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた。
と『岩手日報』(昭和44年8月21日付)において証言しているから、賢治は当時東京にあっては「国柱会」の会員としても活動していながらも一方では「啄木会」の会員としても活動し、また地元にあっては「牧民会」にもしばしば出入りしていた(松本政治も昭和45年4月11日付『岩手日報』の「ばん茶せん茶」でこのことを証言)ということになる。だからであろうか、このことに関して上田哲は
 ちょうどこの時期、賢治が国柱会信仰に最も傾倒し、熱烈に布教活動を展開していた事実と、階級闘争を主張する牧民会と階級闘争を否定妨害しようとする国柱会は全く相反する性格の団体であったことを考えると牧民会のへの出入りはあり得ないことである。もし賢治が本当に牧民会に出入りしていたとしたら彼は二重人格者かスパイ活動のための潜行? とでも解釈しなければならない。しかし賢治はそんな器用な人物でなかったことは明らかである。
訝っている。たしかに、当時「牧民会」や「啄木会」が官憲等からどう見られていたかを考えれば、この上田の疑問というか悩みも宜なるかなである。賢治は多面体であるとも言われているようだが、やはりかなり「融通無碍」である。

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