みちのくの山野草

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「牧民会・啄木会と賢治」(後編)

2019-01-12 12:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 次に名須川は、
 昭和初期の新聞文芸欄で、文芸誌「くぬぎ」の第三号を批評した文の中で、斉藤弘道はプロレタリや系詩人生出仁、織田秀夫等の名前をあげながら最後に、「佐々木喜善氏、宮沢賢治氏は健在なリや。失言多謝。擱筆」(岩手日報 昭和二年八月二八日)と記す。当時、文芸仲間は宮沢賢治という人を民衆詩人の側にいる人とみていたのであろう。
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)462p~〉        
と述べて、「当時、文芸仲間は宮沢賢治という人を民衆詩人の側にいる人とみていたのであろう」と推測している。
 この件に関しては、私もかつて〝当時の『岩手日報』のMに関する記事〟において、
 しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の“「くぬぎ」第三號瞥見”にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうMはこのことを見逃すはずもなく、もしMが「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということであれば、Mは「宮澤賢治氏は健在なりや」に対して、『いや賢治は健在でしたよ』等というようなことを一連の寄稿において必ずや言及していたはずだ。ところが実際にはそのようなことをMは一言も何も述べていない。
と論じていたので、「佐々木喜善氏、宮沢賢治氏は健在なリや」については知っていた。ただし、この「当時、文芸仲間は宮沢賢治という人を民衆詩人の側にいる人とみていたのであろう」という根拠は何であったのであろうかと思って、“「くぬぎ」第三號瞥見”をもう一度読み直してみたが、どこにもその根拠となるべき記述は見つからなかった。

 そして続けて、
 賢治が啄木の命日に文芸講演を予定していたという新聞報道がある。

   啄木の命日に文芸講演会
     十三日に花巻で
来月十三日が薄幸の詩人石川啄木の命日に当たるので花巻在住の文芸愛好者の集い聖燈社が主催となり同夜午後六時から花巻座で文芸講演会を催すことになった。阿部康蔵 宮沢賢治二氏を始め数名出席すると(岩手日報 昭和三年三月二〇日)
 この文芸講演会が実施されたかどうかは、その報道の記事もないのでわからない。
            〈463p〉
ということを紹介していた。たしかに私もこの記事を読んだ記憶はあるが、現時点では確認できないので後日確認してみたい。ただし、そもそも「聖燈社」の責任者は梅野建造(詳しくは後ほど投稿する)だし、しかも賢治と梅野は当時しばしば交流していたことは知られているのだから、この記事のとおり「聖燈社が主催」ということであれば、この講演会に賢治が出席することは何等不思議なことではない。しかも、賢治は「啄木会」の会員でもあったし、先の〝「牧民会・啄木会と賢治」(前編)〟において触れたように、
   賢治は牧民会に出入りしていた。
ことはほぼ明らかになっているので、なおさらにである。

 さらに名須川は、
 プロレタリア作家生出仁の次の文章を読むと賢治から新しいものを学んでいる。

(前略、文芸誌聖燈の詩作品を評して)一つの作品に何こに集団的、階級的、組織的、協働的、同僚精神があるか、勿論そうしたものだけをプロ詩の条件だとは思わないが公理としてみとめられているそれにさえ合致しない(略)宮沢賢治氏の作品より新しい描法を教えてもらった
照井栄一郎 高涯幻二君の作品もみた(昭和三年五月二十一日 月曜文芸 岩手日報、「三十七年竜吉」とは生出仁の筆名。)
と続けていた。この「文章」はたしかに昭和3年5月1日付『岩手日報』の文芸欄に載っている小論「近ごろ雑筆 三十七年竜吉」の中にある。しかし今まで、この「三十七年竜吉」が生出仁その人であること私は知らなかった。
 ところで、賢治から生出はどんな「描法を教えてもらった」のだろうか。そこで、この「文章」の「前略」部分を付け足してみると、
   五 聖 燈
 森佐一氏の(妹よ)(かけつこ)の二つの作品は何時書いたのか知れないが三月發行の聖燈だからその頃の君はこの作品に對して自信を持ち得たことゝ思ふ。そしてプロ詩に侵出したと稱する君がこうしたプロ詩の条件にはづれた作品を發表てゐたことを不思議に思つた。そして僕が君からプチブルジョアの名を呈されたことこそこそばゆいものを感じた。一つの作品共に何こに集團的…(投稿者略)…
となるから、どうやら森荘已池と生出仁は当時互いに鞘当てをしていたようだ。もし、生出が自分のことをプロレタリア作家と認識していたとすれば、「プロ詩に侵出したと稱する」森から、「プチブルジョアの名を呈された」となれば心穏やかではなかったであろう。そして、生出は賢治と森が仲良かったことはおそらく知っていたであろうから、もしかすると森に当て付けるために「宮沢賢治氏の作品より新しい描法を教えてもらった」と、これ見よがしに書いたのだろうか。というのは、昭和2年頃に賢治の書いた詩から少なくとも「プロ詩」と言えるような詩を私は見つけられないからである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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