みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

武治は自説を修正したとは言い切れない

2019-04-15 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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3 武治は自説を修正したとは言い切れない
 さて前回
    澤里武治は終生、終始一貫してそれは「12月」ではなくて「11月」ころであると主張していた。
ということを明らかにした。これで、私がそれまで持っていた「多少の不安」は完全に払拭できた。
 たしかに、横田庄一郎氏は、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(投稿者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
と述べてはいたのだが、それはこの度の澤里武治の新資料に従えば、この〝★〟とは少しちがって、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(投稿者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年十一月末日」というようになっている。
となるべきものである。つまり、「大正十五年十一月末日」というように、「十一月末日」を付け加えるべきものである。ところが、そうはなっていないから、〝★〟を拠り所として澤里武治は自説を修正したとは言い切れないということがこれで判った。念のために繰り返せば、現定説どおりに武治がもし修正した<*1>というのであれば、それは「大正十五年十月」というようになっていなければならないのだが、そうはなっていないからである。
    畢竟するに、澤里武治は自説を修正したとは言い切れないのである。

 つまり、澤里武治が自説の修正をしたともとられかねない〝★〟が見つかったのだったが、実は修正したとは言い切れないわけで、そのような中途半端な〝★〟では反例の資格に欠けることは当然である。おのずから、〝★〟は仮説「♧」の反例とはなり得ないから、私の「多少の不安」はこれですっかり解消できたわけである。
 また、「澤里武治は終始一貫してそれは「11月」ころであると主張していた」ということは、裏を返せば、澤里武治が年は「大正15年」に変更したが、月だけは「11月」のままで変えなかったということはせめてもの彼なりの抵抗であり、矜恃だったとも言えそうだ。またそれは、私が澤里武治の立場になってみればその苦渋はよくわかる。というのは、上京時期に関しての澤里武治の措辞が最初は「確か」であり、次の段階では、「どう考えても」であることからも容易に窺えるからだ。そこで澤里武治は、万やむを得ずある時から折り合いを付け、不本意ながらも澤里は晩年に「昭和二年」については「大正十五年」と変更し「定説」と折り合いを付けて妥協するしかなかったということが否定できないことも私は知った。
 そしてそんなことは、多かれ少なかれ私たちもしばしば経験していることだから、心情的にも理解できるし、同情もする。のみならず前述したように、理屈上からもそうなるだろう。もし澤里武治が本心から自説の間違いを認めて「修正した」というのであれば、定説ではその上京の日が「大正15年12月2日」となっているのだから、「大正十五年十一月末日」であってはそうならないからだ。

 そしてそもそも、『新校本年譜』の担当者等がまず為さねばならなかったことは、件の「三か月間の滞京」が、定説となっている「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」の反例になっているということに気付くことであった。それは、『新校本年譜』の記述どおりに、「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」ということであれば、これは先に挙げた澤里武治の証言、すなわち、
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(投稿者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
が典拠な訳だから、下掲の表

から明らかなように、どうあがいても《表1》の場合にはその「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」の「三か月間」が当て嵌まらないからだ。
 つまり、典拠としている澤里武治の証言自体がこの現定説〝⑹〟、すなわち、
(大正15年の)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。 〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
という定説の反例になっていることに気付くべきだったのだ。なお、ここは素直に澤里武治の証言に従えば、その「三か月間の滞京」は《表2》の場合はちゃんと当て嵌められるのである。これでもう、どちらが間違っていて、どちらが正しのかは一目瞭然であろう。
 
 そこでくどくなるのだが、現定説〝⑹〟にはこのように反例があるのだから、『新校本年譜』の担当者等がまず為すべきことはその反例の存在に気付くことであり、そして次がこの「定説」を棄却することであった。しかし現実には、前者も後者も為されなかった。つまり結果的には、手を抜いていたという誹りを免れられない。 
 なお例えば、武治が晩年に、
    大正十五年十二月 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり………●
ともし書いていたのであればその誹りを受ける筋合いはなかったであろうが、如何せんあくまでも、
    大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記述では、澤里武治は自説を修正したとは言い切れない。「十一月」であっては、もちろん現定説の「十二月」と一致していないからである。
 言い換えれば、〝●〟のようなことを澤里武治が証言していたということを立証できない限りは、この〝★〟は仮説「♧」の反例とまでは言えない。よって、この仮説「♧」の反例は今のところ相変わらず見つかっていないので、今後この反例が見つからない限りはという限定付きで、この仮説「♧」は相変わらず「真実」であり続けているのである。

 さて、ここまでの「仮説検証型研究」によって、賢治が大正15年12月2日に武治一人に見送られながらチェロを持って上京したという定説は事実であったとは言えないということとともに、一方で、賢治には昭和2年11月頃からの三ヶ月弱に亘るチェロ猛勉強のための長期滞京があったという、新たな「事実」も明らかにできた。併せて、「三か月間の滞京」期間もこれで問題なく同年譜にすんなりと当て嵌まることも示せた。
 したがって、改めてここで確認すれば、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
ということであり、現「賢治年譜」はその修訂が迫られている。

 なお、この私の主張、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たる。
 そしてその投稿の最終回〝2513 「賢治の10回目の上京の可能性」〟において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの仮説「♧」に、延いては、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。

<*1:投稿者註> これもおかしい話で、本来「修正」すべきは現「賢治年譜」の大正15年12月2日の、今は定説になっている〝⑹〟の記載内容の方なのだが(それはもちろん、「三か月間の滞京」という反例があるのだから)。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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