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第二章 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」(テキスト形式)

2024-03-03 15:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰
     第二章 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」
 やはりどうもおかしい。というのは、ここまでの考察によって、私からすれば筑摩書房らしからぬ杜撰な幾つかのことが昭和52年に起こっていた、ということに気付いたからだ。ちなみに、ここまでのことを振り返ってみれば以下のとおりだ。
⑴ 昭和52年出版の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、昭和2年7月19日の記載、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
は事実誤認である。つまり、裏付けさえ取っていない。
⑵ 「関『随聞』二一五頁の記述」をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
といって、その典拠も明示せずに証言を実質的に改竄したのも同十四巻であり、昭和52年のことであった。
⑶ 筑摩書房が「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと修辞し始めたのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。
⑷ そうとは言えそうもないのに「新発見」とかたって賢治書簡下書252c等を公表し、しかも推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を安易に公表したのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。

  ㈠ 絶版回収事件
 よって、これだけのことが昭和52年にあったのだから、同年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』はどうもおかしいと私は言わざるを得なくなってきた。そしてもしかすると、昭和52年頃の筑摩書房もまた少しおかしかったのでは、とも思われる。となれば、その頃の筑摩書房ではおそらく何かとんでもないことが起こっていたのではなかろうか、という不安さえもが私の脳裏をかすめた。
 そこで思い付いたのが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という故事だ。危険を冒すとまでは言えないが、まずは虎穴に入ってみようと。すると、『筑摩書房』の社史を調べてみれば何かが分かるのではなかろうかと閃いた。筑摩書房の社史であるという『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)が入手できた。私は慌ただしく瞥見した。不安は的中した。
 一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」したとき…筆者略…
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)85p~〉
とあり、昭和52年ではなかったがその翌年の53年に筑摩は「倒産」していたからだ。私の中で激震が走った。当時筑摩ではやはりとんでもないことが起こっていたのだ。そこで今度は落ち着いて同書を読み直してみた。すると、次のような、
 一九七〇年代の筑摩書房は、目先の現金ほしさに紙型新刊を乱発するなど、必ずしも「良心的出版社」とはいいがたい実態があったし、              〈同146p〉
とか、
 倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました。なかでも許しがたいのは「紙型再版」です。つまり、同じコンテンツの使い回し。紙型=印刷するときの元版を再利用して、あたかも新しい本であるかのように見せかけ、読者に売りつけようとしました。新世紀に入ると、食品偽装事件があちこちで発覚しましたが、紙型再版も似たようなものです。                   〈同348p~〉
という「思いもよらぬ」記述があったので私は愕然とした。一方で逆に、そういうことだったのかと腑に落ちた。
 それはもちろん、「「良心的出版社」とはいいがたい実態があった」とか、とりわけ、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」などということを、自社の社史に直截に書いてあったからだ。となれば逆に、もはやこれらのことは歴史的事実であったのだということになろう。しかも、昭和52年の筑摩書房はまさにその「倒産直前の筑摩書房」であり、しかも注意深く読めば、「腐っていました」ではなく「腐りきっていました」(傍点筆者)とある。そうか、昭和52年の筑摩書房は「腐りきって」いたのか、そこまでひどかったのか……私は言葉を失う。だから、先ほど掲げた⑴~⑷が起こっていたのか、と呆れながらも、理屈としては逆に成る程と納得も出来た。また一方で、これらの「思いもよらぬ」記述は筑摩ならではの厳しい自戒の念が書かしめたのだろうということも推察出来たので、気持ちは少し和らいだ。とはいえ、これ程までにひどかったのかと、ますます不安も募ってしまった。
 さらに同書には、「初めての絶版回収事件」という項もあった。これもまたとんでもないことだと直ぐ分かった。表現の自由が尊重される今の時代、「絶版回収」ということは滅多にないはずだからである。そして、これが「腐りきって」いた事例なのかと直感した。それは、この事件もまた、昭和52年に、まさにその「倒産直前」に起こっていたということになるからである。ちなみに、同項には次のようなことが述べられていた。
 一九七七(昭和五二)年、筑摩書房にとって初めての絶版回収事件が起きる。臼井吉見の長編小説『事故のてんまつ』である。この小説は『展望』の一九七七年五月号(四月刊)に掲載され、五月末に単行本として刊行された。
 作品は、川端康成の自殺を題材にしたモデル小説である。川端康成は一九六八(昭和四三)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞したが、七二(昭和四七)年に自殺した。…筆者略…『事故のてんまつ』では、その動機についての臼井の考察が展開されている。
 しかし、小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、東京地方裁判所に出版差し止めの仮処分申請が出された。筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた。取次や書店に残っている本は回収し、在庫は廃棄処分とした。これを受けて遺族側は申請を取り下げた。
 この件には、ふたつの問題点があった。ひとつは、故人のプライバシー権に関する問題であり、出版差し止め要求で全面に出たのはこれだった。もうひとつは、部落差別に関わる問題だった。 〈同109p~〉
 さて、昭和52年に「絶版回収」されたのであれば、それから40年以上も経ってしまった今、『事故のてんまつ』の入手は困難かなと思った。実際、それが載った『展望』の昭和52年5月号は入手出来なかった。ところが、単行本の方は容易に入手出来た。そして実際に同書を読んでみたならば、故人のプライバシー権や名誉毀損、そして差別問題に対する臼井の認識の不足が読み取れたので、これでは川端康成の遺族も憤りを感じたであろうことは私にも想像出来た。しかしこの内容であれば、遺族から出版差し止めの仮処分申請が出されるということまでは……と多少違和感もあった。
 そこで、改めて同書を読み直してみたならば、臼井はその「あとがき」の中で、
 本にするに当たっては、いたらなかった点に、朱筆を加えた。このことが、作品をいっそうひきしめることにもなると考えたからである。 〈『事故のてんまつ』(臼井吉見著、筑摩書房)204p〉
と述べていた。ということは、『展望』掲載版を単行本化する際に、臼井が大幅に書き変えた箇所があったに違いないと推測出来た。
 そのことを確認したかったので関連図書等を探してみたならば、〝「事故のてんまつ」――『展望』五月号と単行本の異同一覧〟という「疏明(そめい)資料」(『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)107p~)が見つかったので、「朱筆を加えた」箇所等が詳らかになった。ちなみに、それらは15項目ほどあり、これらが「いたらなかった点」であると臼井が認識していた事項ということになるのだろう。そしてそれらの中でも際立っていたのが、単行本においては完全削除されたという、『展望』5月号には載っていた野間宏と安岡章太郎の対談に関する次の部分である。
 野間 ……解放運動が水平社以来の中で、どういう成果を生んできたかというと、現在差別はなくなったと考える人が出るほど大きい成果を生んでいる。
 しかし、差別はきびしくあって、差別語さえ使わなければいいというところにとどまっている。だから、就職の差別も、いぜんとしてある。
…(以下の部分は、川端康成の名誉等に関わることも書かれているから、筆者略)…
 安岡 おかしいね。
対談のなりゆきから察すると、先生が部落とつながりがあるとしか思えない。どう読みかえしても、そうとしか、とりようがない。対談者の間に、暗黙のうち、その了解が通じているらしい話しぶりだ。
〈『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)110p~〉
 というのは、この「削除部分」の内容を読んだだけでも、臼井が故人となった川端の名誉を毀損し、差別を助長しているということが私にも分かったからだ。となれば、『展望』に掲載された改稿以前の『事故のてんまつ』を読んだ川端家の遺族が不快感を抱いたのはなおさらのことであったであろう。

  ㈡ 二つは同じ構図
 そして、単行本版『事故のてんまつ』を読んで気になっていたことの一つに「資料」もある。それは、同書の「あとがき」の中で、「川端さんの自殺のひきがねになったと思われる資料を入手した」とか「この資料を闇に葬り去るべきでない」と臼井が言うところの「資料」(傍点は筆者)のことである。実は、『事故のてんまつ』を読んでいて、同書に登場する「客観的な事実」の信憑性がどうも危ういのではなかろうかと私は危惧し、それは臼井が言うところのこの「資料」のせいではなかろうかと直感したからだ。
 そしてこのことに関しては、『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)の中に、次のような長谷川泉の主張が載っていることを知った。
 (一)作品の素材と作品形成の過程
「事故のてんまつ」の素材となったのは「鹿沢縫子」の原話である。しかもこの原話は、川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏という伝達の経路を辿っている。臼井氏は「蔦屋」から取材したのであって、「当事者たる川端家の人間たちとモデルの女性」から直接取材したり、情報の提供を受けたものではない。       〈同11p〉
 やはりそういうことだったのかと合点がいった。臼井が言う「資料」とは長谷川の言うこの「原話」のことかと、腑に落ちたからだ。よって、この「資料」とは、伝聞の伝聞そのまた伝聞(川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏というルートを辿っている)「鹿沢縫子」の原話にすぎないということが否定出来ず、そのせいで筆者の私は信憑性が危ういと感じたようだ。というわけで、臼井の言う「資料」は事実に基づいたものであるという保証はないし、検証されたものでもない。まして、一次資料でもない。そしてそのような「資料」を、
 「事故のてんまつ」が部落問題を安易に作品の肉づけに用いた軽率さは、井上靖氏や安岡章太郎氏らの警告にもかかわらず、しだいに社会問題化した。…筆者略…臼井氏が「資料」を五年間暖めた最大の理由がマスコミ界の「モデルさがし」を恐れるところにあったことが述べられているが、そこには差別問題に対する認識の浅薄さと配慮の不足が露呈されている。                                   〈同17p〉
と、長谷川は指摘していて、私はそのことを肯わざるを得ない。
 しかも、この事件についての「総括見解」である〝「事故のてんまつ」をめぐっての報告と御挨拶〟が、『展望』(昭和52年10月号)に掲載され、その中で、
 たとえば作品にかかわる差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず、差別打破のための強く明確な場所に立っていたとは必ずしも申しがたい点がありましたことも、痛切な反省とともに、さらに認識を深めつつあるところであります。
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)114p~〉
というように、「差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず」と、「株式会社 筑摩書房」の名で「痛切な反省」をしているから、なおさらにである。
 そして、先に引用したように、「小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ……筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた」ということで、昭和52年8月16日に和解が成立したのだそうだ。ちなみに、その際の「和解条項」の中には、川端の遺族およびモデル側に「ご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します」という臼井の謝罪もあった。
 ただし、『筑摩書房 それからの四十年』によれば、
 この事件は新聞等でもセンセーショナルに報じられ、結果的に『事故のてんまつ』が三五万部のベストセラーとなったのは、なんとも皮肉なことというべきである。売上率はかぎりなく一〇〇%に近かった。
 これまで筑摩書房がもっていた売り上げ部数の記録は、正確な統計が残っているかぎりで、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(一九七二年)の三〇万部だった。      〈同117p〉
ということだから、実質的には「絶版回収」とは言い難い気がして、私からすればあまり後味はよくない。
 とまれ、私は、先に述べたように最初は、「「初めての絶版回収事件」という項もあった。……「腐りきって」いた事例なのかなと直感した」のだが、どうやらそれは直感ではなくて、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきってい」たことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった。
 一方で、私はあることに気付く。それは〝『事故のてんまつ』の出版〟と〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟の二つは次の点で酷似していて、
㈠ 両者とも、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」という、まさに倒産直前の昭和52年になされたことである。
㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、共に事実とは言い切れない、前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した「推定群⑴~⑺」である。
㈣ 共に、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ 共に、スキャンダラスな書き方もなされている。
ので、この二つは同じ構図にあるということに気付く。
 ということは、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった、と先程述べたが、これと酷似した構図がこちらの〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟にもあったから、これもまた、一つの「腐りきって」いた事例であったのかと私は覚った。だから、『校本宮澤賢治全集第十四巻』はあんな杜撰なこと、
 そうとは言えそうもないのに「新発見」の、とかたり、推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を昭和52年に公表した。
のか、ということも。そしてそれは、傾きかけた自社をなんとか建て直そうとしてとった行為(実際、この倒産の直後、「校本宮沢賢治全集」は注文が三割も増えたということが、前掲の社史の145pに書いてあることを知って、やはりな、と私は複雑な気持ちになった)とも考えられるが、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は結果的に高瀬露の人格を傷つけ、尊厳を貶めてしまったわけで、出版社であればとりわけ許されることではないはずだ。まるで、天につばを吐くような行為だからだ。だから、当時の筑摩書房はやはり「腐りきって」いて、「良心的出版社」ではなくなっていたと言うべきだろう。それは、矢幡洋氏の次のような指摘によってなおさらそう思えた。

  ㈢ 賢治のためにも「総括見解」を
 というのは、八幡氏は、あの「新発見の252c」等の一連の書簡下書群について、
 時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…筆者略…と露骨な命令口調で言う。
 露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている。 〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)154p~〉
と論じていて、実は賢治には、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを同氏は指摘していたのだ。そこで私は、このようなことを指摘している研究者を初めて知って、目を醒まさせられた。
 振り返ってみれば、以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があるかも知れないということに私は薄々気付いていた。だが、実はかなりのバイアスが私にはかかっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい見方を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたことを今にしてみれば思う。そしてこのバイアスは、女性に対しては厳しく、男性(賢治)に対しては甘く解釈するという男女差別がなさしめるそれでもあるということにも気付かせてもらった。心理学の専門家である矢幡氏の、この書簡下書群についての冷静で客観的なこの考察に私はぐうの音も出なかった。
 あれっ、そういえばこのような「冷酷さ」は、たしかあの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあるぞということを同時に気付いた。というのは、次のようなことが言えるからである。
 この〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、『雨ニモマケズ手帳』に書かれているので、実際文字に起こしてみると次のようになる。
  10・24◎
   聖女のさまして
       われにちかづき
            づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
           れる
   いま名の故に足をもて
   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
           なれや      〈『校本宮澤賢治全集資料第五(復元版宮澤賢治手帳)』(筑摩書房)〉
 よって、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺える。また、内容的にも然りである。その人を「乞ひて弟子」となったと見下したり、「足をもて/われに土をば送るとも」というように被害妄想的なところもある。一方、自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いて、女性のことを当て擦っているところもあったりする。よって、この詩から浮き彫りになってくる賢治は、私の持っていた従前のイメージとは真逆である。まさに、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元50号』(宮沢賢治友の会)10p~)と表現しているとおりだ。
 さらに、「あゝみそなはせ」とあることからは逆に、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだが、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたことを知ると、賢治の従来のイメージからはさらに遠ざかってゆく。まさに、矢幡氏が指摘しているような「冷酷さ」がこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを私は覚れたのである。ということから、賢治のこのような性向はもはや否定できない(この詩に関しては後の〝⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず〟でもまた論ずる)。
 言い方を変えれば、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人と雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだがその配慮も不十分なままに、同第十四巻が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから私は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
 何故ならば、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけで、この実態が続くと、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露であったというのに、結果的に、賢治は露に対して「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねないからだ。しかし、この悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられるし、しかもそれは濡れ衣であったということを私は実証できている(例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』の「第二章」において)。だから私は、本書の「はじめ」で述べたように、
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかという、我々読者が納得できるそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公表」についても「総括見解」を公にしていただけないか、と。
拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』の第一章の「六おわりに」で私は、賢治と露のために筑摩書房にお願いした次第だ。
 そして、この度のこの考察を通じて、先に私は本書30pで、
 露は「濡れ衣を着せられた」というよりは冤罪だという考え方に変わりつつある。〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布させてしまったことは濡れ衣を着せるよりももっと罪深いことであり、これは犯罪なのだと。杜撰が招いた冤罪であると。
と述べたが、この、『事故のてんまつ』の絶版回収事件を知り、その思いはますます強くなった。それは、この事件と〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟の構図が酷似していることが分かったからだ。
 となれば、この〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟についてもあの絶版回収事件と同じように、筑摩書房は総括をし、その見解を公にすべきだと私は思う。言い換えれば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』において〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟をしたことは、結果的に高瀬露をそうとは言えないのに〈悪女〉にし、〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布さてしまったと言えるし、それに当時「腐りきってい」た筑摩書房が直接関与していたのだから、それは冤罪であると私は主張する。しかも、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は賢治をも貶めてしまったからなおさらにである。
 そしてそもそも、このような実態はあまりにも理不尽なことかも知れないということに普通は気付くはずだから、それを等閑視してきたのは一出版社のみの責任ではなく、私たちにも少なからずある。だから今、「あなた方も等閑視してきました。とりわけこれは他ならぬ重大な人権問題です。研究者としての矜持は一体どこへ行ったのですか」、と賢治から厳しく問われているのかも知れない。
 一方、同社史を見てみると、『事故のてんまつ』の担当編集者原田奈翁雄は、
 今回の経験を通じて、私どもは言論・表現・出版の自由を守ることの意味の深さをあらためて痛感すると同時に、その自由を守るためには、強い自恃と厳しい自戒の一層深く求められることを学び得たと考えております。…筆者略…原稿を目の前にしてそのような編集者の作業こそ、実は作家にとってもなくてはならぬ協力なのである。私の原稿の読み方は、その点において大いに欠けるものであり、いたらぬものであったというほかない。
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩選書)112p~〉
と述べており、原田は己と自社を厳しく総括した。そして、筑摩書房は『事故のてんまつ』の総括見解を公にして詫び、『事故のてんまつ』を絶版回収とした。そして原田は退社したと聞く。なお、同社史は、
 幸いにして倒産した。倒産したから一から出直すことができた。               〈同349p〉
とも断定していた。それ故に、原田奈翁雄といい筑摩書房といい、共にその「強い自恃と厳しい自戒」がよく分かるし、私は敬意を表す。
 というわけで、〝『事故のてんまつ』絶版回収事件〟と〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は同じような構図があったのだから、もし原田奈翁雄が『校本宮澤賢治全集第十四巻』の担当編集者であれば、同『第十四巻』の絶版回収まではさておき、少なくとも同巻の総括見解をまとめ、公にして謝罪し、一から出直したことであろう。しかし現実は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』における問題箇所は基本的には何ら変わることもなく『新校本年譜』や『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』にそのまま残っている。そこで私は、『新校本年譜』が、「……改めることになっている」というまるで他人事かの如き表現を用いてるのは、『新校本年譜』の担当者が、『旧校本全集第十四巻』の編集担当者に対して遠慮があって、おかしいとは言えなかったということの裏返しかなどと穿った見方までしてしまう。
 ついては、願わくば、本章の最初に掲げた31pの〝⑴~⑷〟、
⑴ 昭和52年出版の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、昭和2年7月19日の記載、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
は事実誤認である。つまり、裏付けさえ取っていない。
⑵   「関『随聞』二一五頁の記述」をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一  月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
といって、その典拠も明示せずに証言を実質的に改竄したのも同十四巻であり、昭和52年のことであった。
⑶ 筑摩書房が「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと修辞し始めたのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。
⑷ そうとは言えそうもないのに「新発見」のとかたって賢治書簡下書252c等を公表し、しかも推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を安易に公表したのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。
のそれぞれについての「総括見解」を公にし、併せて、一度「一から出直す」ことを筑摩書房にお願いしたい。

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