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甚次郎と賢治の違いは何、何故

2019-03-23 18:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》
 甚次郎と賢治の違いは何、何故
 それでは最後に、「羅須地人協会」と「最上共働村塾」とを通して、「甚次郎と賢治の違いは何、何故」を考察してみたい。

 さて、菊池忠二氏が『私の賢治散歩 下巻』において、
 大正中期に武者小路実篤は「新しき村」(大正七年・宮崎県)、昭和初期松田甚次郎は「最上共働村塾」(昭和七年・山形県)をつくっているが、そのほかにも大正末期から昭和初期にかけて、全国的に農民のための私塾や、各種の学校がつくられている<*1>。
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)163p〉
と述べ、
 羅須地人協会は、私塾的な農民教育機関だった……
〈同169p
と断じているし、私自身もそのように認識している。当時はあちこちで塾風の教育が行われていて、「羅須地人協会」も「最上共働村塾」も、共にそのような塾の一例であったということをまず確認したい。
 そして、前者については、前々回に於いては、
 宮澤賢治の羅須地人協会の活動には農本主義的な側面があり、「雨ニモマケズ」は満蒙開拓の推進や戦意高揚等に利用された。…………☆
と判断せざるを得ないようだということを知ったし、後者については、前回に於いては、
 松田甚次郎の「最上共働村塾」の活動は根底に農本主義思想があり、第二次世界大戦下での国家総力戦体制への地ならしに等に利用された。…………★
となるのではなかろうか、ということを知ることができた。そこで、下掲もしておいたが、先の一覧表《「羅須地人協会」と「最上共働村塾」(素案)》<*2>を俯瞰しながら併せて上掲の☆と★を眺めていると、次の2点が特に言えるのかなと現時点では思っている。

 その一点目は、戦意高揚・戦争協力の観点から見ると賢治の私塾「羅須地人協会」と甚次郎の「最上共働村塾」は結構似ている点も多い。一方で、この二つの塾の大きな違いは、前者は吉本隆明が言うように「手をふれかけて止めた」が、後者は賢治の「訓へ」を愚直なまでに実践し続けたということだ。
 そして二点目は、「羅須地人協会」は賢治のための塾であり、上下構造をしているが、「最上共働村塾」はみんなのための塾であり、水平構造をしているということが似ていて非なるところである、とだ。
 そしてそれは、「羅須」の意味を愛弟子の菊池信一が賢治に問うたところ、「花巻町の花巻と呼ぶ様に意義は何もない」と応えたということからして、「「羅須地人協会」は賢治のための塾であり、上下構造をしている」ことはほぼ明らかだ。
 一方、甚次郎は賢治の「訓へ」に素直に従って「賢治精神」を実践し続けるためには仲間が必要であることを覚っていたので、皆のための塾と位置付けて運営したのだと思う。それはここまでに知った甚次郎の実践内容と、甚次郎が多くの塾生から慕われていたことからおのずから導かれるということを私は知った。

 それにしても、前掲したような塾長の対応の仕方では「羅須地人協会」の開塾の趣旨等が塾生に伝わりにくいこと、塾生との意思疎通も一方的なものとなり、塾の機能は発揮しにくいということなどは賢治ならば容易に察しがつくはずだ。にもかかわらず、結果から見る限りではそれを解消する気もなければ、解消が実際にできたわけでもなかったと言わざるを得ない。それは例えば、「羅須地人協会」の活動期間は長くても約8ヶ月間であったという短命が物語っているだろう。
 おのずから「羅須地人協会」の活動実績も、吉本隆明が、「賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めで終わってしまったと厳しい評価をし、協会員の伊藤忠一が、「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う」〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉と言っているのも宜なるかなと私は思えてしまう。しかも当の本人の賢治が、書簡258において、「たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」と、自虐的とさえも言えるような、自己総括と謝罪をしていることを知ると、吉本や伊藤忠一の「羅須地人協会」評は正鵠を射ていると言わざるを得なかろう。
 したがって、ここまでの考察だけでも、「羅須地人協会」と「最上共働村塾」のどちらの活動がより高く評価されるべきは私からすれば火を見るよりも明らか。しかし現実は、その評価には雲泥の差がある。それはなぜなのだろうか。

 例えば、甚次郎は農本主義的だったからという理由だけで、「最上共働村塾」の方だけが、延いては甚次郎の方だけが戦後葬り去られてしまったという歴史を否定できない(そして、そのような甚次郎の扱い方は「宮澤賢治学界」においても起こっていたということを否定できない。戦後しばらくの間甚次郎の存在は同学界ではほぼ消えていたからだ)。
 たしかに、甚次郎は農本主義者・加藤完治の影響を受けていたことは否定できないが、もし仮にそのことが原因で葬られたとしたならば、それは賢治だって同じはずだが実態はそうではないから、それはおかしい。
 また農本主義者の橘孝三郎はファシストだからということで、農本主義の甚次郎も同様に戦後葬り去られてしまったということならば、甚次郎は橘から直接的な影響は受けていないはずだから、これもまたおかしい。まして、甚次郎はファシストとは言えないだろう。
 あるいはまた、甚次郎は満蒙開拓の推進者・加藤完治から確かに影響を受けているから、甚次郎もその推進者だという論理で戦後葬り去られたのだともいうのであれば、それもおかしい。それは、甚次郎自身はそもそも満蒙開拓の熱心な推進者とは言えないはずだし、一方、「雨ニモマケズ」はその推進のためにかなり利用されたわけだから、甚次郎の方だけが満蒙開拓の推進者という漠然とした評価で葬り去られていったということはアンフェアだ。

 しかし現実には、最近まで甚次郎は地元でも、そして花巻でも、あるいは「賢治学界」でも殆ど忘れ去られていた、あるいは無視されてきたという実態があるから、どうやら、甚次郎だけが目の仇にされてきたの感がある。つまり、不当な扱いを受けてきたと言えるのではなかろうか。
 たしか、ある詩人などは、仲間でもあったはずの甚次郎のことを、
     時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した。…………●
と誹っているが、この詩人も含めて名の知られた人々の殆どは、戦中はそうだったはずだ。それは、小林節夫が『農への銀河鉄道』において次のように論じていることからも明らかであろう。
 (2) 戦争に協力した文学者・芸術家と日本文学報国会・大日本言論報国会
 こういう中で有名な文学者・芸術家が戦争に協力するようになりました。一九三三年(昭和八年)四月には浪岡惣一郎作詞「日章旗の下に」を中山晋平が作曲。八月、内閣情報部の中国の漢江攻略戦従軍に関する文芸家との協議に菊池寛、吉川英治、佐藤春夫らが出席。陸軍二班計二十二名の従軍に決定、佐藤春夫は永井荷風に報告。九月には吉川英治、佐藤春夫、小島政二郎、吉屋信子らが文学者の従軍海軍班として中国に行きました。
 それどころか、「満州事変」から、敗戦までの十五年戦争の間、特に一九三七年の支那事変となり、大政翼賛会がつくられると休息に戦争協力の文学・芸術家の人たちが増えました。
 島崎藤村は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という東条英機の戦陣訓の校閲をしました。…(略)…
 山田耕筰は「日支事変」以来、戦時歌謡、軍歌として「杭州小唄」、戦争昂揚の歌「英霊賛歌」…(略)…などを作曲し…(略)…
 北原白秋は一九三八年には「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒がはげしくなり…(略)…
 歌人斎藤茂吉はアララギ派の総帥で、高村光太郎に似て戦争賛美・戦意昂揚短歌、言わば戦争強力の歌を詠み、その中には東条英機賛歌などもあり、戦争協力を恥じたり、反省するというようなことは全くありませんでした。
〈『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)233p~〉
 つまり、当時の第一線の名立る作家がぞろぞろ出てきているが、もちろん、当時でも己の思想・信念を貫いて虐殺されてしまった小林多喜二や、せめて(?)沈黙しようとした小林秀雄や谷崎潤一郎などはいるようだが、多くの作家等は戦争に協力をせざるを得なかったということではなかろうか。したがって、甚次郎独りだけが非難されることがもしあったとするならば、それはアンフェアなことだということになる。

 それとも、前掲の詩人は甚次郎のことを、「賢治の作品はあまり勉強しているとは思えなかった」冷笑しているから、「賢治精神」を実践している人は賢治作品を勉強している人よりも劣っていると思っていたので、仲間でもあったはずの甚次郎のことを「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と貶したのだろうか。しかし私は、賢治作品を勉強しているだけの人も、「賢治精神」を実践している人もそれほどの差はないはずだと思っているし、それでもどっちかハッキリしろと迫られたならば、村上春樹と同じ立場に立つ。そう、

 しかしそれでもその詩人が、〝●〟と甚次郎を腐すのであれば、私は言いたい。
 甚次郎独りだけが不当な扱いを受けねばならない理由ないはずだ。にもかかわらず、〝●〟といって甚次郎を罵りたいのであれば、それは先ずその詩人自身が自分に対してそうすべきことだ、と。身に覚えがないとは言えぬはずだからだ。そして、それでも相変わらず、甚次郎のことを〝●〟だと言いたいのであれば、あなたは甚次郎と仲間だったはずなのだから、その当時、直接甚次郎に向かってそう言うべきだったのだ。
と。そしてそれがなされていたならば、その詩人が甚次郎に対して〝●〟などとは言えぬことは私からすれば自明だ。あるいはそれでもなおかつ、〝●〟と言ったのであれば、まず問われるのはその詩人自身のはずだ。なぜならば、そこには自己撞着があるからだ。そして、私は改めて、「〝●〟と詰るのはアンフェアですよ。あなたと甚次郎にどれだけの差があったのですか」、とその詩人に私は言いたい。

 逆にいえば、昨今松田甚次郎の再評価が地元新庄では一気に高まっていることは当然の成り行きであり、そして甚次郎の師である宮澤賢治の花巻においても、かつてそうだったようにまた甚次郎の評価が極めて高くなってゆくのもまた同様なのではなかろうか、ということを私は確信している。

 なお安藤玉治によれば、生前甚次郎は賢治のそばに埋葬されることを望んでいたので、甚次郎の遺骨は分骨されて賢治詩碑の横に埋められているという〈『賢治精神」の実践』231p〉ことだから、あの羅須地人協会跡の台地の中で、今頃賢治は、
 お前には昭和10年代はとりわけ世話になったのに、戦後すっかり世間から無視されてしまっていたが、これでやっと、山形では評価が急激に高まっているということだし、先の花巻での公演『土に叫ぶ人 松田甚次郎』が大盛況だったことを機に、花巻での甚次郎の評価がかつてのように高まることがかなりなり期待できるから、私(賢治のこと)も安堵している。
と甚次郎にしみじみと語りかけているに違いないと確信し、私は勝手に安堵している。

 さて、そもそもこのシリーズの本来の目的は何であったのかというと、それは「甚次郎と賢治の違いは何、何故」を知ることであったが、まだ全貌は明らかにできずにいるが、ここまでで自分なりにそうかなと思っているところを特に再確認すれば、
 共に当時盛んであった塾風教育の一つとしての「羅須地人協会」であり「最上共働村塾」であったから、戦意高揚・戦争協力という点では賢治の「羅須地人協会」と甚次郎の「最上共働村塾」は結構似ている点も多い。その一方で大きな違いは、前者は吉本隆明が言うように「手をふれかけて止めた」が、後者は賢治の「訓へ」を愚直なまでに実践し続けた。
ということである。そして、
 何故このような大きな違いが生じてしまったのかというと、不羈奔放で天衣無縫な賢治と、素直で誠実な甚次郎という性向の違いが為せる業だった。
のではなかろうかと私は見ている。

 以上をもちまして、このシリーズ〝「甚次郎と賢治の違いは何、何故」〟を完了する。

<*1:註> 菊池忠二氏は、体的には次のようなものがそうであると、同書で紹介している。 
 日本農民福音学校(昭和二年・賀川豊彦・兵庫県)、日本国民高等学校(昭和二年・加藤完治・茨城県)、瑞穂精舎(昭和三年・和合恒男・長野県)、神風義塾(昭和四年・山崎延吉・三重県)、日本農士学校(昭和六年・安岡正篤・埼玉県)、愛郷塾(昭和六年・橘孝三郎・茨城県)、農村公民義塾(昭和四年・富山県)、共存道場(大正十四年・星田金之助・栃木県)、農村青年共働学校(昭和二年・岡本利吉・静岡県)
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)163p〉
<*2:註> 一覧表《「羅須地人協会」と「最上共働村塾」(素案)》





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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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