《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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これで、澤里も柳原もともに信頼に足る人物だということを私は確信した。したがって二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人間とは思えない。
二人の証言と「現定説」
さて、賢治の最愛の教え子の一人澤里武治の次の証言、
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見
送りしたのは私一人でした。……………○随
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見
送りしたのは私一人でした。……………○随
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
があり、もう一人の最愛の教え子柳原昌悦の次の証言、がある。
一方で、このことに関する「現定説」はもちろん「新校本年譜」の大正15年12月2日にあるように、
セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。…………○現
<「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
ということになっている。となると、矛盾を抱えたように見えるこれら「○随」「○柳」「○現」の関係はどのように解釈すればいいのだろうか。このことに関して私は次のように解釈している。
そのためにまず確認しておきたいことは、
◇澤里も柳原もともに信頼に足る人物だと確信できるから、二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人間とは思えない。
ということである。したがって、「○随」も「○柳」もともに事実を正直に語っていると判断できる。
すると「○柳」から、あの日に澤里と柳原は一緒に上京する賢治を見送った、ということが導ける。そして柳原が言うところの「あの日」とは「○現」の日付「大正15年12月2日」に他ならない。
したがって、
◇大正15年12月2日、澤里と柳原は上京する賢治を一緒に見送った。 ……………①
ということになるが、これは歴史的事実と考えられる。一方「○随」より、
◇昭和2年11月頃の霙の降るある日、上京する賢治を澤里はひとり見送った。 ……………②
も同様に歴史的事実と考えられる。もちろんこう解釈すれば、澤里の証言と柳原の証言の間に何ら矛盾は生じないし、この解釈はかなり素直な解釈でもある。
ところがこう解釈すると、定説「○現」との間には矛盾が起こるではないかと指摘する人があるかもしれないが、それはない。ここで誤解してはならないことは、何も澤里は霙の降る大正15年12月2日に賢治をひとり見送ったと証言している訳ではないからである。また澤里は大正15年12月2日に賢治を見送っていない、とももちろん言っていなのである。したがって、ここは柳原の言うとおりであるとして一向に構わず、何ら矛盾は生じないことになる。
一方では、「新校本年譜」は「理由」も明示せずに定説「○現」の日を
ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
と宣言している。だから矛盾の根元はそこにあると私は言わざるを得ないし、「宮澤賢治年譜」担当者におかれましては是非ともその「理由」を我々読者に対して明示して欲しかったし、これからでもいいからそうして欲しいものである。
がしかし、その「理由」を現時点では知る術もない私とすれば、その「宣言」の妥当性も理解できないがゆえに①と②はともに真実のはずであり、まずは
宮澤賢治は昭和2年の11月頃に上京した。
と結論せざるを得ないのである。
仮説「♣」定立
そこで、私は澤里の証言「○随」等に基づいて次のような仮説、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
を定立したい。そして、今後はその検証をしばし試みたい。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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