みちのくの山野草

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2510 10回目の上京の別な可能性(#38)

2012-02-04 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
24.とうとう病気になった賢治
 さて残されたもう一つの課題は、澤里武治が言うように
  賢治は昭和2年11月頃上京して3ヶ月間ほどの滞京をし、「とうとう病気になられ」た。……②
か否か、を検証することである。
 それは、澤里が次のように「沢里武治聞書」で語っている
 滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そいいうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月の間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
というようなことがはたして実際あったか否かを検証することでもある。
(1) 大津三郎から教わったこと
 昭和2年の元日、賢治は一年の計として「本年中にセロ一週一頁」を立てたのだがなかなか上達はしなかった。それは後々の澤里や嘉藤治の証言、賢治のチェロの腕前は「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかった」とか「音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階」だったいう証言からも明らかであろう。
 とすると、昭和2年の11月頃の賢治のチェロの腕前も推して知るべしである。もともとチェロそのものの上達が難しいことは先生に師事して習うチェリストの卵にしてすらそうであるということだから、独習の賢治の場合はなおさら遅々としていたであろうことは容易に想像できる。
 そこで賢治は独習の限界を悟ってプロの先生に直接習おうと企てて上京したのではなかろうか。もちろん以前〝10回目の上京の別な可能性(#33)〟で述べたようにこの他の上京理由もあったのではあろうが。
 そして、賢治は澤里に
 沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
と強い決意をみなぎらせて上京した。もちろん、着京した賢治は早速チェロのプロの先生に直接チェロを習う算段をしたに違いない。その具体的な現れが、賢治は大塚氏に必死に懇願し、大塚氏を通じて大津三郎になんとか三日間のチェロの特訓をしてもらう算段がついについたということであったのであろう。
 では賢治は大津三郎から何をどう習ったのだろうか。大津の次の証言からそれが解りそうである。
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。
<『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』の月報『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>
おそらく賢治はこのような大津の指導を実際受けたに違いなかろう。
 そしてこの後の賢治滞京中のチェロの独習内容は、澤里の証言にあるように
 最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。
ということであろう。
 よってそれぞれがこのとおりであるとするならば、大津の指導内容と賢治の独習内容とは整合性がとれるので、大津の言っている指導内容も、澤里の言っている賢治のチェロの独習内容も事実からそれほどは離れてはいないであろう。このような観点からも、「沢里武治聞書」における澤里の証言は信憑性かなりあると言えるのではなかろうか。
(2) その他の証言
 ではこの際の賢治の「病気」に関して他の証言はどうなっているだろうか。以前〝10回目の上京の別な可能性(#9)〟で列挙した「1.証言等のまとめ」の中から拾ってみると次の2項目があった。
☆座談会「先生を語る」において
(11)賢治の病気が悪くなったのは昭和2年の秋頃だと思うが…、それは賢治が東京へ行ってからだと思う。東京ではエスペラント、セロ、オルガンなどを習っていたという話だった。
と言う意味の証言をしているし、
☆7 レコード交換会に関連して
(15)昭和2年10月下旬以降のあまり遠くない時期に賢治は病気になって伏せたようだ。
ということだったから、これらは②の傍証となりそうだ。前者は賢治は昭和2年頃上京して病気になったと思うというものであり、後者も賢治が病気になったことを示唆していてなおかつその時期は前者の時期と矛盾しないからである。
(3) かつての賢治年譜には
 さらには驚くべきことがあった。この当時に賢治が病気になったことがあるなどとは私はつい最近まで全く思いもかけていなかった(かつて見たことがある幾つかの書籍所収の賢治の年譜には一切書かれていなかったとばかり思っていた)のだが、驚くべきことに賢治没後暫くは賢治年譜はそうではなかったことを知ったからである。
 因みに、それは以前〝10回目の上京の別な可能性(#15)〟で投稿したように、賢治没後からしばらくは多くの賢治年譜には
  昭和3年1月 漸次身體衰弱
などと書かれているからである。
 その例を、他の病歴等も含めて二三以下に挙げてみる。
(a)『宮澤賢治研究』(草野心平篇、十字屋書店版)所収年譜より抜粋
・昭和三年 三十三歳(一九二八)
 △ 一月、肥料設計、作詞を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊による榮養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
 △ 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
・昭和六年 三十六歳(一九三一)
 △ 九月九日、炭酸石灰、石灰岩製品見本を携行、本復に至らざる身を無理に上京し、再び發熱し、神田の八幡館に病臥す。東京に於て死す覺悟にて、菊地武雄と種々談合せるも、父の嚴命に依り歸省す。
・昭和七年 三七歳(一九三二)
 △ 植物性の食料を欲し、動物性食料を遠ざけ、漸次衰弱す。
・昭和八年 三八歳(一九三三)
 △ 九月二十日、急性肺炎の徴候見ゆ。
 △ 九月二十一日、午前十時卅分、容態急變せるも、意識明瞭なり。
 △ 一時三十分、自らオキシフルを脱脂綿に浸して、身體を拭き終わりて永眠す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平篇、十字屋書店版、昭和14年9月発行)より>
(b)『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房)所収年譜より抜粋
・昭和三年(一九二八) 三十三歳
 肥料設計、作詞を續けたが漸次身體が衰弱して來たす。
 八月、肋膜炎になり父母の許に病臥した。
・昭和六年(一九三一) 三十六歳
 九月、炭酸石灰とその製品見本を持って上京し、神田區八幡館にて病臥、數日後歸宅して再び病床生活に入った。
・昭和七年(一九三二) 三七歳
(〝△ 植物性の食料を欲し、動物性食料を遠ざけ、漸次衰弱す〟に相当する記述なし)
・昭和八年(一九三三) 三八歳
 九月二十一日、喀血し、國譯法華経の頒布を遺言して永眠した。
<『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年2月発行)より>
(c)『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収年譜より抜粋
・昭和三年(一九二八) 三十二歳
(〝△ 一月、…この頃より、過勞と自炊による榮養不足にて漸次身體衰弱す。〟に相当する記述なし)
 八月発熱病臥。
 十二月急性肺炎。((a)にも(b)にも記述のなかったもの)
・昭和六年(一九三一) 三十五歳
 九月、炭酸石二十日、壁材料の宣伝販売のため上京直後に発熱、遺書を認める。帰宅病臥
・昭和七年(一九三二) 三六歳
(〝△ 植物性の食料を欲し、動物性食料を遠ざけ、漸次衰弱す〟に相当する記述なし)
・昭和八年(一九三三) 三七歳
 九月二十一日、容態急変、喀血。国訳法華経一千部を印刷して知己に配布するよう遺言して午後一時半死亡。
<『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫、平成元年6月発行)より>

 これらの年譜はいずれも宮澤清六が編輯したものか、それに基づくも、あるいは校閲しているようだから
   賢治没後のしばらくは、昭和3年の1月頃に賢治は身体衰弱の状態にあったということは周知のことであった。
ということになろう。それも他の場合の病名等は
   肋膜炎、發熱、急性肺炎、病臥、喀血
なのに、この昭和3年の1月の場合は
   漸次身體衰弱
とあり、象徴的である。一体この漸次身體衰弱とはどんな病状であったのか、いかなる病気なのか私には今のところ不明だが、身近にいた宮澤清六はこのときの賢治の病状をこのように捉えていたということになろう。
 そして、実は賢治自身もそれらしいことを言っていることを知ったのだがそれは次回で。  
 
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