みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

長野 長針 功

2020-08-22 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は長野の長針 功からの次のような追悼についてである。
    長野 長針 功  
野の師父松田甚次郎先生の御逝去は何たる淋みしい初秋の頃か?
おゝ悲しい!!大地に黒い土を握りしめて立つ私共の心の底迠冷たく涙が流れてなりません。吉田様始め皆々様にも御同様の由本當にお慰めの何物も持ちません。
扨て貴紙にて先生に就いて記憶とかの御事、小生別にそうした良き材料も無き次第なりしも昭和十五年八月十六日「川澤は汚水を納れ山薮は疾を蔵め、瑾瑜は瑕を匿し国君は垢を含むは天の道なり」、又〝勇者断じて進めば正理の道潔くこゝに開く〟の二軸を給り後亦、昭和十七年三月には當村長丘村翼賛壮年團の錬成講習会に来訪臨席、講演下され引き続き私宅に立寄られ二時間余のお話を承り、當村来村の土産として「野に出よ。野に出よ野は君の母なり」の座右の銘をお残し下され、感一入にして私は土の中に松田精神を求め、且つ打ち込んでゐる様な次第でございます。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)33p〉

 ここでまず思い出したことは、吉田六太郎が松田甚次郎のことを「野の師父」と称えていたし、兵庫の阿部正彦は松田甚次郎のことを「日本農民の師父」と見ていたことだ。甚次郎のことを、義農とか、農聖はたまた聖農と称えていた人も少なくないが、私がここまで甚次郎のことを調べてきた限りでは、その実践ぶりに鑑みればこの「野の師父松田甚次郎先生」はまさにぴったり、って感じがますますしてきた。 
 さて、甚次郎は昭和2年4月に小作人になったから、誕生日が明治42年3月3日であり、18歳から小作人となったことになる。爾後、農村文化の向上と、農業生産物の増産のために東奔西走したといえる。そのような甚次郎が昭和15年8月(31歳)に、
    「川澤は汚れ納れ山薮は疾を蔵め、瑾瑜は瑕を匿し国君は垢を含むは天の道なり
と軸に墨書していたわけだから、甚次郎が如何に勉強家であったかということも容易に想像できた。それは、私などは、
    川澤納汚

    山藪蔵疾

    瑾瑜匿瑕
そして、
    国君含垢
のどの四字熟語も全然知らなかったからである。このことだけからしても、不勉強で自堕落な投稿者の私は己を恥じながら、甚次郎が如何にストイックな生き方をし、全国を東奔西走しながらも寸暇を惜しんで勉学にも勤しんでいたということを納得できた。
 そして一方で、そういえば真壁仁は「賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった」ということを理由にして、甚次郎のことをくさしていたが、当時の甚次郎にとってそれは喫緊の課題ではなかったのであろうということを、私はこれで容易に理解できた。言い方を変えれば、確かに真壁はそのような生き方をしたのかもしれないし、それは素晴らしいことだったのであろうが、それはあくまでも真壁の価値観に基づくものであり、それを他人に当て嵌めてしかも揶揄するということは、はたして如何なものだろか。
 それとも、前掲の追悼から、甚次郎は昭和17年3月の「長丘村翼賛壮年團の錬成講習会」に講師として招かれていたということになりそうだから、このようなことだけをもってして真壁は、甚次郎のことを「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と判断したのだろうか。しかし、「虚名を流した」という表現を用いていることからは、もっと違う理由でそう揶揄していたのではなかろうか、ということがはしなくも示唆される。しかも同県人同士だからなおさらにだ。

 続きへ
前へ 
 “「松田甚次郎の再評価」の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《発売予告》  来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))

を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―            森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―      上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―  鈴木 守
の三部作から成る。
             
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 早坂高原大森山(8/11、エゾ... | トップ | 早坂高原大森山(8/11、イブ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

甚次郎と賢治」カテゴリの最新記事