みちのくの山野草

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松田甚次郎の評価(真壁 仁)

2019-03-09 16:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 次に、真壁 仁の次のような松田甚次郎評があることを知った。
 昭和十三年か十四年に、盛岡の菊池暁輝と鳥越(現新庄市)最上共働村塾の松田甚次郎がやって来て、山形市に賢治研究会をつくる相談をした。相談にのってくれたのは当時山形師範学校教授で日蓮の研究者である相葉伸(現群馬大学教育学部長)と、小学校教師の新関三良(現福島県史編纂委員)らであった。松田君は毎月出て来て研究会に協力してくれたが、賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった。村塾の経営とその自給自足主義や農民劇は賢治の教えの実践とみられるが、しかし時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した。これは賢治には全く見られぬものであった。
             <『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局)7p~>
 ああそういことだったのかと、是非はさて措き私は真壁の甚次郎評をある程度理解した。つまり、安藤玉治が引例していた「また松田とともに「山形賢治の会」の創立や運営をともにした同志的な人々の中にも、彼松田を、思いあがりとか、時流にのり、国策におもね虚名を流したなどという人もいた」というのその「人」とは真壁のことだったのだ、ということがこれではっきりした。たしかに、真壁と甚次郎は一緒に「山形賢治の会」をつくった間柄なはずだ<*1>。なのに、この文章からは、真壁は甚次郎のことを”賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった”と嘲弄気味に突き放し、一方では”虚名を流した”と嗤っていたのだ。ちょっと信じがたい。

 ところが、同書の「あとがき」で川田信夫氏<*2>は次のように述べていた。
 松田の呼びかけによって、戦前の山形に二つの「賢治の会」ができた。一つは「山形賢治の会」で、もうひとつは「荘内賢治の会」である。「山形賢治の会」の中心になったのが真壁で、一九三九年二月から九月まで、月一回の例会を持っている。賢治の外郭的紹介や芸術の概念的展開は終えたとして、翌年一月に純粋な研究をめざして再興賢治の会を発足させた。その時「宮澤賢治とユートピア思想」と題する研究発表を行っているが、翌二月に治安維持法違反の嫌疑で彼が検挙された後、会は再び開かれたことはなかった。しかし半ば時流に乗せられて賢治の実像から離れていった松田と、(マルキシズムからの転向があったにせよ)本格的に賢治の実像を学ぼうとした真壁らとの決別といった要素を含みながらも、賢治の精神を継承する灯がともしつづけられていたことは、現在の時点で賢治を読む私たちにとっては大きな励ましである。
           <『修羅の渚』(真壁 仁著、法政大学出版局)199p>
 したがって川田氏のこの文章からは、真壁は昭和15(1940)年に検挙されてその後転向、「半ば時流に乗せられて賢治の実像から離れていった松田」と決別した、ということになろうか。そして川田氏によれば、真壁は「本格的に賢治の実像を学ぼうとした」という。ただし、このことに関しては松田甚次郎が間違っていて真壁が正しかったとは言い切れなさそうだ。
 それは、真壁のその「賢治の実像を学ぼうとした」取り組みとして、『修羅の渚』の中には次のようなタイトルの論考、
 陸羽一三二号物語
 酸えたる土にそそぐもの
 実践家としての宮沢賢治
 賢治と飢饉の風土
等があるが、少なくとも私が知る限りの賢治像とはかけ離れた賢治像がそこでは語られているからである(もし機会があれば、これらの項目に関しては私なりの反論を試みたい)。
 したがって、真壁が甚次郎のことを「賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった。村塾の経営とその自給自足主義や農民劇は賢治の教えの実践とみられるが」と評することは、私から見れば仁義に反することになりそうだし、実践よりも作品研究の方に重きを置くべきたというような真壁の価値観に私は与することはできない。まして、真壁は「詩人農民(農民詩人)」なのだから、そのような価値観を顕わにすることは天に唾することにはならないのだろうか。少なくとも私の場合には、
   「賢治精神」の実践<賢治の作品の勉強
という不等式は成り立たない。

 とまれ、高村光太郎に師事した山形の真壁仁、同じく山形の斎藤茂吉に師事したやはり山形の結城哀草果の2人は、同県人の甚次郎を共にかなりくさしていたということになりそうだ。しかし私は甚次郎一人だけを責めるのは酷な気がする。なぜなら、結城は甚次郎が「農民道場」つまり「最上共働村塾」を開いたことを、真壁は甚次郎が「時流に乗り、国策におもね」とそれぞれ非難しているが、前者はその根拠が乏しいしと私は見ているし、後者はそんなことは甚次郎のみならず当時は文化人等も含めて殆どの人がそうだったのだから、それを甚次郎に対してのみ「虚名を流した」と誹るのは個人レベルの感情的な発言だ、としか私には見えないからである。そしてそれは、もし真壁が甚次郎に対してそう非難するのであれば、同じ論理で真壁の師光太郎に対しても批判せねばならないはずだし、結城は茂吉に対して同様であらねばならなかったはずだ。
 このことに関連して、やはり同県人の藤沢周平は『ふさとへ廻る六部』(新潮社)の中で、光太郎と茂吉に関して次のようなことを、
 ともに戦争礼賛の詩や歌を詠んだ2人だが、光太郎は戦争協力した自己点検の詩集『暗愚小伝』を出し「千の非難も素直にきき、極刑とても甘受しよう」というが、一方の茂吉は歌集『白き山』を出し、注意深く読めば低音の懺悔の響きがあるものの、「軍閥ということさえも知らざりしわれを思えば涙しながる」という歌を戦犯をのがれるために詠み、光太郎の自己点検には遠くおよばない。それは2人の戦争協力の認識の有無の違いにあると思われる。
と、語っていたという(今、出典調査中)。
 だからやはり、真壁が甚次郎を「国策におもね」と非難するのであれば、光太郎も積極的に戦争協力したわけだから同じ論理で真壁は自分の師であるが光太郎を非難しなければならなくなるはずだが、真壁がそうしたということは聞かない。そしてまた、真壁が甚次郎を責めたいのであれば、甚次郎の師である賢治の「雨ニモマケズ」等が戦争昂揚に利用されたわけだから、賢治に対してもある程度その観点から批判せねばならないという理屈になるはずだが、そのことに関して真壁が論じていたということを私は見出せずにいる。なお、同じ論理で、結城が甚次郎のことを批判したいのであれば、自分の師斎藤茂吉<*3>を同じ観点から批判すべきだろう<*4>。
 ただし、もちろん私は真壁や結城にそうして欲しいと主張したいわけではない。もし非難したいのであれば、もっと公平な立場からそうして欲しいと言いたいだけである。ダブルスタンダードは如何なものか、とである。

<*1:註> 『村塾建設の記』によれば、昭和14年1月22日に山形の県教育会館で、佐藤姉(佐藤しま?)の尽力によって「宮澤賢治を偲ぶ會」が開催され、34名が参加。その日の夕、
 山形の詩人農民、真壁仁君から賢治の会結成案が提出され拍手裡に成立した。…(投稿者略)…
 それから二月二十一日、次回賢治の會で案内状は左の如くで、七十枚の案内狀で小生と眞壁君の(ママ)佐藤姉の名で出すこと…(投稿者略)…
 やがて二月廿一日丁度舊正月三日なので私の村の靑年子女八名を引率して出掛けた。參會者三十名の豫定で總て用意して居つたら五十二名の參會だ。圖書館長も日本的な歌人結城哀草果も、市内の中等學校の教諭連も農民も學生もみんな精神歌を唱和して、開會した私は、二月四日に、築地小劇場先生の童話を脚色上演した『ポランの廣場』と『風の又三郎』等の話と、私を教示してくれた先生との間柄等の話した。
 眞壁君は農業と宮澤先生の事を色々と話されて一同は聖者の前にうなだれた樣な、静寂裡…(投稿者略)…
             〈『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)123p~〉
ということである。たしかに、昭和14年に甚次郎と真壁は力を併せて「山形賢治の会」を作っていたといえるだろう。
<*2:註> この『修羅の渚』(真壁 仁著、法政大学出版局)は、真壁仁が逝って10年後に「秋田書房刊」を復刊されたものであり、「あとがき」は真壁ではなくて復刊に尽力した川田信夫氏が書いていた。
<*3:註> 小林節夫によれば、
 歌人斎藤茂吉はアララギ派の総帥で、高村光太郎に似て戦争賛美・戦意昂揚短歌、言わば戦争強力の歌を詠み、その中には東条英機賛歌などもあり、戦争協力を恥じたり、反省するというようなことは全くありませんでした。
               <『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)233p~>
<*4:註> どうやら茂吉は全く責任に心を痛めていなかったようだが、一方、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表したことを悔いて光太郎は太田村山口に「自己流謫」したわけで、私は素直にそのような光太郎に敬意を払う。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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