みちのくの山野草

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チェロ猛勉強のための3ヶ月弱滞京(後編)

2019-04-09 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
 あまりにも理不尽
 さて、昭和31年に『岩手日報』紙上に連載された『宮澤賢治物語』において公に紹介された「○澤」であったが、それが昭和32年に単行本として出版された段階ではこの証言は意味が全く逆になるように、何者かによって改竄されたということは以前に詳述したところである。
 心の底では、「どう考えても昭和二年十一月ころ」のことであったと確信していたと思われる澤里武治にしてみれば重ね重ねの衝撃であり、さぞかし忸怩たる思いであったであろう。
 そもそも、昭和2年11月頃ならば澤里は花巻農学校3年生の時であり、大正15年12月ならば同2年生の時である。多くの人の場合にそうだと私は思うのだが、ひと月やふた月のずれならいざ知らず、印象に強く残っている高校時代などのエピソードが何年生の時だったかということは峻別し易いものである。それゆえにこそ、澤里は「どう考えても昭和二年十一月頃」と表現したのであろう。つまり、「どう考えても」というこの表現こそが澤里のその確信をいみじくも物語っていると私には見える。
 ところが、その挙げ句、澤里は当時定説となっていなかった「宮澤賢治年譜」を基にして証言することを迫られた節がある。さらには澤里のその証言が後に彼のあずかり知らぬところで改竄されたりしていることを知ったならば、まさしく横田氏や板谷氏が伝えているように「沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた」のも宜なるかなと私には思える。そしてそれからというものは、澤里は賢治に関しては緘黙するようになったと私は推理する。
 したがって、なにも澤里は晩年になって自説を修正したという訳ではなく<*1>て、その頃には既に宮澤賢治の定説「○現」<*2>が定着して、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を一人澤里が見送ったという「事実」は大正15年12月2日のことであるとなってしまったので、万やむを得ずそうするしかなかっただけのことではなかろうか。まして、「先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」という極めて重要な証言は、「現宮澤賢治年譜」にはどこにも書かれていないし、そのことはだれも問題にしなくなったからであろう。
 これほどまでに、自分の証言がある部分だけ使われてその他の一部は無視されたり、改竄されたりしたとなれば、いかな賢治の愛弟子の澤里でさえも不本意ながら緘黙せざるを得なかっただけのことではなかろうか。もちろんこれはあまりにも理不尽な話であり、私は澤里に同情を禁じ得ない。一方で、晩年になってからは、それが決して賢治のためではないと思ってありのままの賢治を話すことにしたという彼の心境の変化は私にもよく理解できる、それは澤里のせめてもの賢治に対する敬意と自身のプライドであったと私は思うからである。
 一方、定説「○現」に対する柳原の心中も正直穏やかならざるものがあったであろうこともほぼ明らかであろう。しかし、同級生や恩師のことを思って、思慮深い柳原は「○柳」を胸に秘めたままであったということではなかろうか<*3>。
 H氏の単独担当
 ところで、『修羅はよみがえった』には次のようなことが述べられていた。
 そもそも旧校本全集第十四巻所収の年譜は、H氏(筆者による仮名化)の単独担当で、氏の多年にわたる努力、資料収集のつみかさね、「評伝」の刊行などの達成にもとづくもので…(中略)…
 新校本全集でも、基本的に<H年譜>が土台となっている。
 …(中略)…新校本全集は、H氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調査・再検討し、さらに多くの新資料を博捜・校合してさまざまな矛盾点を解決し、解決しきれない事項は、本文から下段註へ移したり、場合によってはあえて削除して、出来る限り客観的に、信頼しうる年譜作成をめざした。
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)389p~より>
 これを見た時、「そうか、やはりそういうことだったんだ」と私は膝を叩いた。仄聞していたことではあったが、これで「旧校本年譜」はH氏の単独編纂だったことが確認できたからだ。そしてなおかつ、H氏は「新校本年譜」の編纂については直接タッチしていないということもこれでわかった。
 だから、「新校本年譜」では
 ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
<「新校本年譜」(筑摩書房)326p~より>
という奥歯に物が挟まったような表現がなされ、奇妙な処理がなされていたのだということに私は合点がいった。あの澤里武治の証言を「旧校本年譜」であのように扱ってしまった責めの多くはH氏にあったのだ。最初はそう思った。
 そこで以前見たことがある「賢治年譜の問題点―H氏に聞く」を読み直してみた。するとそこには次のような「大正15年の年末の上京」に関するH氏自身の発言があった。
 あのとき、セロの猛勉強をしていますが、その詳しいことをこの年譜には入れていない。そのことも気になっています。
<『國文學 53年2月号』(學燈社)176pより>
 ということは、H氏自身も澤里の証言の使い方については気に掛けていたと言うことだろう。おそらくH氏の言うところ「セロの猛勉強」とは澤里が証言するところの「三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強」のことであり、あの「三日間のチェロの特訓」でないことは明らかだ(三日間では猛勉強とはとても言えない)。
 そしてH氏の「気になっています」の意味はおそらく、「澤里の証言の一部は使い他の一部は無視していることに呵責を感じている」という意味なのであろう。あるいは澤里に対してH氏は気が咎めていたということを正直に吐露していたということなのかもしれない。なぜならば、H氏には申し述べにくいことであるが、大正15年12月2日の「現定説」にはもともと澤里武治の証言を当て嵌めることはできないからであり、そのことに気付かぬH氏であるはずがないからである。
 ところがここまで推論してきて私はふと立ち止まらざるを得なかった。H氏一人だけを論うわけにはいかぬのだ、ということに思い至ったからだ。なぜならば、『岩手日報』紙上に載ったあの「○澤」のその後の改竄にH氏が直接関与などできる訳などないからである。
たしかに、次の二つ
・「新校本年譜」の中の、澤里の言っている「どう考えても昭和2年の11月の頃」を大正15年とすること。
・『宮澤賢治物語』の中の、「昭和二年には先生は上京しておりません」を改竄して「昭和二年には上京して花巻にはおりません」とすること。
はその狙いが似ているとは思うが、それぞれに携わっている立場が違うからである。
 とまれ、この改竄をした、あるいはその指示をしたX氏が誰なのかが私には現時点ではわからぬから、その人のことがある程度わからぬうちは少なくともH氏を論うわけにはいかない。
 せいぜい現時点で私が言えることは、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
は検証に耐えることができたので、今後これに対する反例が提示されない限りという限定付きにこれは「真実」となったので、いわばこれは歴史的事実だとも言えるということである。そして言いたいことは、X氏はこの「歴史的事実」は賢治のイメージとしては「不都合な真実」であると思い込んでいたのであろうということである。

<*1:投稿者註> このことを裏付ける資料がその後見つかったので、このことは後ほど詳述したい。あるいは、拙著『本統の賢治と本当の露』の中の「㈡「羅須地人協会時代」の上京について」において既に公にしてある。
<*2:投稿者註> 定説「○現」とは、大正15年の次ようなの現定説のことである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)325p>
<*3:投稿者註> 柳原の同僚だった、実証的賢治研究家の菊池忠二氏が直接本人から訊いたという次のような証言があり、これが「○柳」である。
 (a) 柳原昌悦の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。〈菊池忠二氏による柳原昌悦からの聞き取り〉
『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、38p)

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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