みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

尾崎喜八と賢治(後編)

2019-03-21 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
***************************************************************************************************
〈承前〉
 突如チェロを習おうと思い立つ
 したがって、この『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』に基づけば次のようなことが一つの可能性として浮かび上がる。
・賢治が尾崎喜八宅を訪ねたのは大正15年である。その理由は、手に入れたばかりのチェロが弾けるようになりたいがために、それを三日間で指導してくれる先生を紹介して欲しかったからである。
そして仮にそうだったとすれば、それに付随して、
・大正15年12月の滞京当初、賢治はチェロを習おうと思っていた訳ではない。その上京の際に賢治はチェロを持って上京していた訳でもない。
ということも自ずから言えよう。
 そしてこのことは次のことからも言えるであろう。それは、宮澤政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕の中には、タイプライター、オルガン、エスペラントのそれぞれの学習についての報告はあるものの、チェロの学習に関しての報告は一切ないからである。セロの「セ」の字さえもそこには出てこない。そしてそれは、この滞京中に賢治が出した他の書簡の中でも同様であってチェロに関しての記載は一切ない。やはり、もともとチェロの学習を思い立って上京していた訳でもなかろう。
 もし賢治が当初からチェロの指導を受けようとしていたのであれば、 「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということを依頼するために、チェリストでもない詩人尾崎喜八宅を訪ねる訳がない(もしかすると、賢治の「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」という口跡の依頼の仕方からすれば、賢治は尾崎がある程度チェロを弾ける詩人であると思い込んでいたということはあるかもしれないが)。
 あるいは、以前賢治は尾崎に『春と修羅』を贈っていてその住所を知っていて、しかも尾崎はクラッシック音楽にも造詣が深いということを賢治は知っていたからかもしれない。この滞京中に急にチェロをやりたくなった賢治はチェロを教えてくれそうな専門家を知らなかったので、細いつてだがその尾崎宅を訪ねたのかもしれない。逆に言えば、面識もなく懇意にしていた訳でもない尾崎喜八を賢治が訪ねたという行動は、賢治がチェロを習おうと思い立ったのはその滞京中に突然にであるという可能性があることを示唆している。
 一方で、しばしば見られるように賢治(あるいは天才)の性向としては思い立ったら直ぐ飛びつく(諦めるのもまた早い)性向があるが、まさしくその性向をして賢治にチェロを買わしめたのがこの上京の折のことであろう。なおかつその時期もこの滞京期間の終盤(大正15年12月下旬)であろう。なぜならば「たった三日でセロが弾けるように」と言っていたようだから、そこからは念願のチェロは入手できたが、ほどなく花巻に戻らなければならないので時間的余裕がなく、そこでそのような無理なお願いを賢治はしたのだという推理ができるからである。いずれこのことは後程再考したい。 
 年末チェロ特訓後直ちに帰花
 さて尾崎喜八は、賢治没6年後の昭和14年版『宮澤賢治研究』(草野心平編)所収の「雲の中で苅つた草」において次のように、
 多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の或夜東京の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>
と回想している。
 もちろんこの「トロンボーン手」とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅に例の「三日間のチェロ特訓」を受けに行った際のことを語っていることになろう。その特訓期間は定説では「三日間」だが、尾崎の言っている「一日か二日」も似たり寄ったりで、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は駄目押ししていると思う。
 ただしこのことよりももっと注目したいことは次の二点である。その一点目は
    ・多分四五年前になると思ふが
にである。このことからは、この証言はそれほど昔のことを言っている訳ではないということになる。そして二点目は
    ・やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた
にである。
 とりわけ、私はこちらの証言が重要だと思った。この証言からは、この際の滞京はこの「チェロの特訓」を受けた直後に終止符を打ち、即帰花したということが導かれるし、その信憑性がかなりの確度で保証されることになろうと思えるからである。さほど昔のことを言っている訳ではないからである。
 よって現時点での私の判断は、父政次郎宛書「222」の中の
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
に注意すれば、
・大正15年12月の滞京については、その月末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受け、直ちに帰花した。
と判断できることになる。
 もちろん、賢治のこの頃の上京といえばそれこそ「昭和2年の11月頃の上京」ということも考えられるが、その際は澤里武治の証言に従うならば病気になって帰花したのだから当てはまらず、この特訓を受けて賢治は直ちに帰花ということが言えるのは大正15年12月の上京しか考えられないことになる。なぜならば、もう一つの「羅須地人協会時代」の上京、すなわち昭和3年6月の上京がもちろん当てはまらないことは自明だからである。

 続きへ
前へ 
 ”「賢治昭和2年11月から約3ヶ月滞京」の目次”に戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北上市立花(3/19) | トップ | 北上市国見山(3/19、片栗の蕾) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事