みちのくの山野草

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賢治の楽器演奏技能(前編)

2019-03-18 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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2 楽器演奏技能の真実
 少し前から私は、宮澤賢治のオルガンやチェロの演奏技能の実力の本当のところを知りたいと切実に思うようになっていた。かつての私は賢治は相当の実力があったであろうとばかり思っていたのだが、どうやらそういう訳でもなさそうだということに気づき始めていたからだ。
 チェロの腕前に関する証言
 そんな折、『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)を読んでいたならば、著者の横田氏は次のようなことなどをそこに著していた。
(1) そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。
 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンとのばして、「それは、なかなかなものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてはどうでしたか、と板谷さんが問いかけたのに対しては、「いや、それはちょっと無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里はひそめて打ち明けた。「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)112pより>
そして、
(2) 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
 親友の藤原嘉藤治にいわせると、賢治はチェロのほかにオルガンもやっていたのだが、「しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりもまだ初歩の段階という感じでした」(『宮沢賢治』第五号の思い出対談、一九八五年)ということになる。
<前掲書116pより>
あるいはまた、
(3) 立教女学院短期大学教授の佐藤泰平さんは、賢治が仲人をした嘉藤治夫人キコさんから、生前こんな話を聞いた。「二人で一緒にチェロを弾いたこともあったですよ。二人共、下手だったね。べーべー、ブーブーって、馬の屁みたいな音だして。あのセロの音は好きでなかったね。私はヴァイオリンの音の方が好きだったから」(『宮沢賢治ハンドブック』)。
<前掲書120pより>
と。そして、同書ではこれに引き続いて阿部孝の語るところの「ぎいん、ぎいん」のエピソード(後述する)を紹介している。
 事実として受け止めれば
 ここまで同書を読み進めて、私は納得せねばならぬのだと覚悟した。今までは、賢治はチェロも、ましてオルガンは相当の腕前であったのであろうとばかり思っていたのだが、実はそうではなかったのだという証言がこれだけあることを知って正直落胆した。しかし、これだけの同じ様な評価をしている証言があるのならば、このような証言の方がその真相であり、それに目を背けてはいけないのだと覚悟した。この著者横田氏自身もチェロの独習経験があるということだからなおさらに。
 そしてもちろん、いみじくも横田氏が続けて同書で語っているように
 いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>
のだから、むやみにやたらに落胆してばかりいる必要もなかろうとも私は思った。
 実際、『宮沢賢治の音楽』や『セロを弾く賢治と嘉藤治』を著している佐藤泰平氏も次のように語っているからである。
■賢治の音楽的能力はどの程度だったのでしょう。
 技術的な面では、歌は得意でも、オルガンやチェロで曲を弾くのは苦手だったと思います。しかし、楽譜通り引くことよりも、音で想像したり、思索したりするほうを大事にしていたようです。音楽の鑑賞力、洞察力といった感覚は抜群で、自作の劇の演出(音楽の指導も含めて)もするなど、総合的な意味での音楽的能力が非常に優れた人でした。
<『宮沢賢治1985第5号』(洋々社4pより)>
 それよりは、この程度が賢治のオルガンのそしてチェロの腕前だったのであり、それが真相であったと受け止めれば、現在私が進めている仮説「♣」の検証をさらに押し進めてゆけそうな気もしてくる。というのは、澤里武治は、
 後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
昭和31年2月23日付『岩手日報』連載の「宮澤賢治物語(50)」において証言しているのだが、賢治はチェロをマスターしようと思って上京したのだったがそれがはかばかしくいかなかったということを意味するこの証言と前掲の(1)~(3)の中身は符合することになるからである。
 したがってこれら(1)~(3)からは、意気込んで上京した約3ヶ月の辛くて厳しいチェロの練習だったがその腕前を上げること叶わぬままに賢治は疲れ果て、病気になって花巻に戻ったというのが実態であったであろうということが現実味を帯びてくる。ひいては、賢治のチェロの腕前を証言しているこれら(1)~(3)は仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
を傍証してると言えそうである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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