みちのくの山野草

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佐伯郁郎と賢治

2015-04-17 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
佐伯郁郎とは
 まずは佐伯郁郎についてであるが、『岩手の詩』には次のように
 農民の精神文化確立を主張、佐伯郁郎
 1901(明治34)年1月江刺郡米里村に誕生。20(大正9)年盛岡中学卒業、早稲田大学仏文科入学。24(大正13)年、前田鉄之助編集発行人「詩洋」(福永書店)を前田鉄之助・長田恒夫・小島行夫・田中令三らと発行。25(大正14)年卒業後、日本女子高等学院(現在の昭和女子大)で教師。その頃「農民文学研究会」の会員となり、若い早稲田出の文学青年と農民文学の研究に情熱を燃やした。26(大正15)年7月盛岡市六日町の「仏教会館」で、盛岡啄木会共催で白鳥省吾・犬田卯等で「農民文芸会盛岡講演会」を開催。同年10月10日『農民文芸十六講』(春陽堂)に、「農民詩・民謡」を執筆。「野獣の如く粗野な、而も階級意識に目覚め、社会批判の眼を持ち、地殻を破る溶岩の如き力を持つ農民の具体的、現実的の表現」と記述している。27(昭和2)年7月20日、「岩手日報」に「『農民』の創刊について―同志を求む」を寄稿。「農民のイデオロギーを基調とした精神文化の確立」「農民の解放運動、病的社会文明に対する反抗、闘争もある」「中央集権に反抗の旗幟をかかげて来た私たちの広く門戸を開放して同志を募り意にその初志の貫徹を期したい願い」と論調。…(略)…27(昭和2)年から46(昭和21)年3月まで内務省図書課情報局文芸課に在勤する。
            <『岩手の詩』(岩手県詩人クラブ、平成17年)63pより>
と述べられているから、出生地は米里村であり、江戸時代の人首城主沼辺家の家老職のを勤めたという佐伯家の出である。その後盛岡中学に進み、大正9年にそこを卒業して早稲田大学に進んでいるから、盛岡中学大正3年卒の賢治と同窓であり、6年後輩となる。なお、佐伯郁郎が早稲田大学時代に私淑した人物吉江喬松は当時早稲田大学仏文科の主任教授でもあった。

郁郎外山で一ヶ月ほど原稿書き
 また、佐伯郁郎は『農民文芸十六講』の中の「農民詩・民謡」を担当したわけだが、このことに関連して『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』の中に次のようなことが述べられている。
 佐伯の「農民文芸会」に於ける実質的な活動期間は、大正十四年から昭和三年六月までの間である。この間、機関誌『農民』『地上楽園』『女性文化』『家の光』『野菊』等に詩、評論を寄せ、大正十五年七月十五<ママ>日には、白鳥省吾、犬田卯と共に東北への宣伝を兼ね来盛。六日町の「仏教会館」にて啄木会主催の講演会を開催している。この講演会は、花巻、釜石でも開催の予定であったが、主催者側の不手際と、白鳥省吾の急用で実現されなかったとある。佐伯は、その四日後の同月二十九日から、外山牧場にて一ヶ月ほど過ごして同月十月刊行の『農民文芸十六講』の「農民詩・民謡」を執筆する。
               <『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)12pより>
なお、ここでは〝大正十五年七月十五<ママ>〟となっているが正しくは大正十五年七月二十五日であり、あの訪問謝絶事件の起こった日のことであろう。そして、この頃の佐伯郁郎は女子高等学院教授だったはずだからおそらく夏休み中であり、その休みを使って外山牧場で『農民文芸十六講』のための原稿を書いていたのであろう。そして『農民文芸十六講』は同年の10月には発刊されているわけだから犬田卯が「早くも原稿は二ヵ月を要せずにしてまとまり」と『日本農民文学史』』(小田切秀雄編・犬田卯著、農文協)で証言しているとおり、佐伯郁郎も電光石火で原稿を書き上げたのであろうことが推察される。まさしく犬田卯の言うとおり佐伯郁郎は「仕事がしたくてうずうずしている新人」の一人だったのだろう。

郁郎と賢治のつながり
 ところで、佐伯郁郎は賢治とは直接面識がなかったということだが、少なくとも賢治は当時既に早い時点から佐伯郁郎なる人物をある程度知っていた可能性がある。なんとなれば、賢治は当時江刺を2回訪れていてそれは、
    1回目:大正6年8月28日~おそらく同年9月7日
    2回目:大正13年3月24日~25日

               <『新校本宮澤賢治全集 大十六巻(下)』(筑摩書房)より>
であり、しかもこのいずれの場合にも賢治は人首も訪れているというからだ。もちろん人首は郁郎の出身地である。しかも、郁郎の実家は当地の旧家(江戸時代に人首城主沼辺家の家老職のを勤めた)だけにその豪邸は今でも目に付くし、おそらく賢治が当地を訪れた際にも、カトリック教会やハリスト正教会の建物と同様郁郎の実家も目立ったはずだ。なおかつ郁郎は盛岡中学出身だから賢治とは同窓だし、その同窓生が「農民文芸会」の主力メンバーとして活躍していることは、例えば『家の光』や『早稲田文学』等を通じて知っていたであろう。
 あるいは従兄弟の宮澤安太郎から佐伯郁郎なる人物のことを賢治は聞いていたのではなかろうかとも考えられる。ちなみに、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の335pに〔啄木会成立宣言文〕なるものが載っていて、そこに「東京啄木会」会員の名が
     啄木会同志名(順不同)
石川準十郎、石川斌、木村不二男、船越一郎、村井源一、佐伯慎一宮沢安太郎、高橋大作…(略)…深沢省三…(略)…宮沢賢治…(略)…
(太字投稿者)
というように記載されている。そしてこの〔啄木会成立宣言文〕は大正10年に作られたもののようだし、賢治は大正10年には上京・しばし滞京していたわけだから賢治の名がそこにあることは何ら不思議ではなかったが、その中に「宮沢安太郎」の名を見つけた私は、そうか賢治の従兄弟の彼もメンバーだったのかと驚いた。そいえば、この大正10年の滞京中賢治は本郷の「稲垣方」に間借りしていたわけだが、その頃安太郎も一時その稲垣方に止宿していたということだったから安太郎が「啄木会」に入会したことは不自然ではない。
 そしてあれっと思った。その安太郎の名前の直ぐ前の「佐伯慎一」とはもしかすると佐伯郁郎のことではなかろうかと。なぜならば、郁郎は『春と修羅』を安太郎から貰ったと証言していることを思い出したからだ。ちなみに、郁郎は昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』朝刊において、
◇読んでいく中に随分なつかしい顔にも出逢ひました。啄木はいはずもがな、堀越夏村氏は学校の先輩とも聞いてゐて遂にお目にかゝれないでしまつたし、宮沢賢治氏にはお目にかゝつたことがないのですが御親類の安太郎さんを通じて「修羅と春(ママ)」をいたゞいてゐます。
と述べていることを私は知っていた。そこで、『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)で調べてみたところやはり予想どおりであり、その60pに佐伯郁郎の本名は佐伯慎一であると記されていた。

思考実験〈原因は佐伯郁郎にあった可能性も〉
 しかも、「啄木会同志名(順不同)」名簿の6番目に慎一(郁郎)、続いて7番目が安太郎となっていることに鑑みれば、慎一も安太郎も案外早い時期にこの会に参加し、それも二人が並んで書いてあるということは、この二人は連れだって加入したということが考えられそうだし、少なくとも郁郎と安太郎はかなり昵懇な間柄であったということがこれで私自身は得心できた。そういえば、郁郎は盛岡中学大正9年卒、安太郎は同大正10年卒だから、この二人は盛岡中学の寮で一緒だったことなども考えられる。
 そんなこんなで、賢治は佐伯郁郎と直接面識はなかったものの、彼のことはある程度知っていた可能性がある。さらには、厳格な犬田とは違って、「農民詩」を詠む資格があるのは何も農民と限らねばならぬとは佐伯郁郎は思っていなかったということだから、そのことをこれらのルート等を通じて賢治は知っていた可能性があり、賢治は郁郎と親和性があることを感じてそれこそ『春と修羅』を従兄弟の安太郎を通じて郁郎に贈ったということすら想像できる。しかも、この「面会謝絶事件」には安太郎が関わっている可能性、そしてこの時に安太郎は花巻に戻っていたという可能性も大だという証言<*1>もあるから、安太郎から賢治は『佐伯郁郎はこの講演会後、農民文芸の理論を構築してて体系化する『農民文芸十六講』の原稿書きに専心するために1ヶ月ほど外山に滞在する予定だそうだ』などということも直前に聞いたかもしれない。そこで賢治は、同様に自身も農民芸術に関する理論を構築しようとしていたのでその影響を受けることを嫌って、賢治は急遽訪問を謝絶した可能性もあったのではなかろうか。つまり、訪問ドタキャンはの理由は、犬田の動きを直前に知ったからというだけでなくてこの佐伯の原稿書きの意気込みなどを突如知ったからでもあった、などという可能性も考えられる。
 あるいはもっと素直に考えれば、賢治は佐伯のことは犬田と比べればよく知っていたと判断できるし、この時の訪問は安太郎が骨折ったという証言もあるわけだから、安太郎を通じて佐伯が賢治に会いたい旨を伝えたところ賢治から承諾を貰った。ところが、後に犬田等も一緒にやってくるということを知った賢治は途端に約束を反古にしようと思った。なぜならば、先ほどの理由と同じだが、佐伯とならば親和性はあるが、犬田はラジカルで、
 〝土の芸術〟というのは、農民が自らの手で創作した芸術・文学であらねばならないのである。
              <『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)28pより>
と主張していることを知ったので、「農民」ではない賢治は犬田とは根本的に相容れないと覚って急遽約束を反古にしたということもあり得たであろう。
 そしていずれにせよ、「賢治宅訪問ドタキャン事件」の原因は何も白鳥にあったわけではなく、それよりは犬田や佐伯にあったということが思考実験上は十分にあり得ることがわかった。また一方で、このいずれかが真実であったとしたならば、後に白鳥が草野心平に対して、
と応えたということだが、この白鳥の言うことは理に適っていたことになる。

<*1:註> 佐伯郁郎をよく知るある方から、
 例の大正15年7月25日面会謝絶に関しては、賢治と白鳥達が会ったらいいのではなかろうかと周旋し、間を取り持ったのが宮澤安太郎であるようだ。実際この時安太郎も花巻に帰っていたという事実もある。そして一方で、宮澤安太郎と佐伯郁郎は在京県人会でお互いに交流があったようだ。
ということを私は以前に聞いていたことがある。

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