みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

原因は犬田卯にあった可能性

2015-04-14 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
広く知れ渡った「面会謝絶」
 菊池忠二氏によれば伊藤整は、
 民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
               <『若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)>
というようなことを述べているという。もちろんこの「某」とは白鳥省吾のことである。つまり、当時一世を風靡していた民衆派詩人の大御所白鳥省吾が当時殆ど名も知られていなかった賢治に面会を謝絶されたということで、一部の人達はこのゴシップを面白おかしく吹聴していたに違いない。
 あるいはまた鈴木健司氏によれば、岡本弥太の「随想 宮沢賢治」で次のようなことも述べられているという。
 …さる俗情界に有名である東京の詩人二三人が講演旅行の途次、肺患に呻吟する花巻町の詩人を訪ねたら、玄関で断られてしまつたといふ、うそらしいまことの話をある仙台の詩人が書いてきた。              <『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)より>
もちろんこの「俗情界に有名である東京の詩人二三人」とは、白鳥・犬田卯そして佐伯郁郎のことであるという。
 したがって、いわゆる『面会謝絶事件』は遠く四国の岡本のところまでも広く知れ渡っていたということがわかるし、しかも千葉恭の具体的で詳細な証言もあること故、「東京の詩人二三人」の賢治宅訪問がドタキャンされたことは事実であったと判断して間違いなかろう。

『農民文芸会』の二三人
 これで、一般に言われている「白鳥との面会謝絶」の是非はさておき、このドタキャンそのものは確実にあったとしてよさそうだということがわかった。そこで、賢治が急遽訪問を拒絶した理由、『彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから』だが、はたして賢治はこのような抽象的な理由でそうしたのであろうか。
 一方、白鳥等一行はその後どうしたかというと、佐伯郁郎は大正15年7月31日付『岩手日報』において「感謝の言葉」と題して次のようなに述べている。
 わたしたちは、実は花巻でも、講演し、釜石でもするはずであった。前者は、わざわざ花巻到着時間を電知し、せっかくの好摩の盆踊りも見ないで、やって行ったのに対して主催者側の不手際から、どこでどうやればいいかもわからぬ破目になって、阿部、米内、村井、加藤の四氏に御迷惑をかけて花巻遊園地むなしく(実は非常に愉快であったが)一日をくらしてしまうこととなり、釜石へは白鳥氏の急用のために果たさないでしまった。折角の機会、殊にも、犬田氏は多忙中を、わざわざやって来てくれたのに対して、只一ヶ所の講演は実に残念ではあった。
 そして実は、この時の講演会はそもそも“啄木会主催『農民文芸会盛岡講演会』”というタイトルで開かれたものであり、この『農民文芸会』を当時実質的に取り仕切っていたのが犬田卯であり、その犬田が多忙中をわざわざ岩手にやって来たのだから、もしかするとこの直前のドタキャンの原因は白鳥にというよりは『農民文芸会の二三人』にであり、特に犬田にあったという可能性も考えられる。なぜならば、雑誌『家の光』における犬田を始めとする『農民文芸会』のメンバーの活躍振りが、とりわけ犬田のそれが当時目覚ましかったからである。

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6 コメント

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阿部等のフルネーム (ヤジュル)
2015-04-14 17:55:31
安部、米内、OO、加藤のフルネームは、阿部康蔵、米内一郎、加藤幹夫ではないでしょうか。
返信する
 権威主義への反骨の痛快さ ( 辛 文則)
2015-04-14 19:23:00
   鈴木 守 様
  この「白鳥・犬田両著名詩人との面接ドタキャン事件」
について、正直なところ、守先生はどう御感じですか。「二人からの面談申込み」に対けて、と一度はOKの返事を送り、「考えあぐねた挙句、直前になってのドタキャンを千葉恭に委ねた」という経緯と推論できそうですね。
  世間的常識、取り分け、「権威権力者との関係とりつけ一大事」と熱望する俗人であれば、尚更のことですね。小生の如き、〈反権威主義者〉を自認する漢の心の底にも、若い頃には、「権威にすり寄りたい」という我利私慾は濃厚にありましたし、二十九歳ほどの大正14年3月の『森佐一への手紙』にも、そんな本音が噴出していますよね。
  然しながら、それとは相反する心地も賢治の内に働いていたことは、小生が、その一年後の『岩波茂雄への手紙』、さらには『雨ニモマケズ』などとも強く因縁付けている、〈『春と修羅』第二集〉のための序文に示されている、次の如き意思表明です。
  道く。

〝 そこでまことにぶしつけながら,わたくしの敬愛す  るパトロン諸氏は,手紙や雑誌をお送りくだされた
 り,何かいろいろお書き下さることは,気取ったよう
 ではございすが,何とか願い下げいたしたいと存じ
 ます.
   わたくしはどこまでも孤独を愛し,熱く湿った感
 情を嫌いますので,もし万一にもわたしにもっと仕
 事をご期待なさるお方,同人となれと云ったり,原
 稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり,
 わたくしを苦しませぬようおねがいいたしたいと存
 じます.〟
   賢治 〈心象スケッチ『春と修羅』第二集 ・序〉
 
  小生は、この〈道取〉を「賢治流の道破」として〈〉真面目(しんめんもく)〉に享け受めた上で、大正十三年の『不貪慾戒』を『雨ニモマケズ』の先駆形と読んでいる訳です。つまり、『雨ニモマケズ』を、大正十五年から昭和三年頃までの試みへの後悔や懺悔としては享受していない、という次第です。因って、小生にとっての、『雨ニモマケズ』での最も一大事なメッセージ意思表明は、ゴータマやら慈雲尊者の十善戒のエポックなる〈不三毒戒〉つまり、「不貪慾戒』・不瞋恚戒・不愚癡無明戒の表明」ということに。固より、この三毒悪は相互に切り離し不可能です。つまり、貪欲と瞋恚と愚癡無明は相互的に因縁付けられていて、どれかひとつだけを成就させるのは不可能なのだ、と。
  で、小生の、松本竣介の『生きている画家』問題との因縁で、『白堊校百年史』編纂時代にとりつかれた疑問は、「能ク見聞キシ解りソシテ莫忘紫苑ナル者ニナリタイ「」と熱望する者が、同時に而も、「世間ノ他ノ皆ニ木偶之坊(無用不材者)ト誹ラレル者ニナリタイ」と自戒せずにはいられない〈理由因縁〉や如何?ということなのでした。
  その懐疑に比べれば、「ヒドリかヒデリか?」や「天災ノ期はトボトボオロオロ歩く」のか、「玄米三合か四合か?」などは「どうでも差不多」なのでした。つまり、小生の関心は、「賢治の十大なる感心は、天災と人災との何れなるか?」、だったという因縁に。で、『生きている画家』問題との邂逅は十五歳の時節であり、その懐疑と、「如何なるか吾父の若き期節の真面目は?」とは切り離せなかったという次第なのでした。ましてや、佐藤啓二氏の弔辞によって知らされた、「君は松本竣介も賛助出品していた白楊会の会員だった」というエピソードが。賢治にとっての〈白楊(山鳴らし・箱楊)〉は、二十歳時の短歌で、「悟りのねがい」 と高らかに。
   で、件の、序文での力点は、「気取ったよう
 ではございすが,何とか願い下げいたしたいと存じ
 ます.わたくしはどこまでも孤独を愛し,熱く湿った
 感情を嫌いますので…」、と。
    「気取ったようでは」 とわざわざ書いているのは、左様な言上が世俗的名利の追求者から、強く疎まれることは百も承知だったからでしょう。実際、幼くして左様な知恵をつけ得なければ、不登校・社会的ヒキコモリは不可避ですし、創造的表現者への欲望など懐きようもない訳で。
  で、この、「わたくしはどこまでも孤独を愛し,熱く湿った感情を嫌います」という言上を宣言とよむならば、臨済義玄の「不受人惑、随処作主。」やら「非近代ヨーッロパ的漱石流個人主義(自我而自己本位)」に擬えることもできそうですし、賢治が執拗にリフレインする〈モナド〉というボキャを、『荘子』の〈渾沌〉や華厳哲学の〈理事無礙法界法界〉に謎えられる〈ライプニッツ的モナドロジー〉の要素としての〈単子単体モナド〉と読むと同時に、「自覚的な単独者的孤独者」つまり、「現代に於いては自分の主張は理会も共感も得られないと自覚した孤独な一個人」、と。
  漱石の『文学論』が、描き出す〈天才(天才的意識)〉とは、「時代に数十年以上先覚する理知的洞察力」つまり、「数十年乃至数百年後にはアタリマエになるアイデアを先取りする能力」ということになります。普通一般の人々の常識は、時流や時勢の羈絆に縛られているわけですが、「不羈奔放・自主独立」つまり「不受人惑、随処作主」なる〈有明智慧〉や如何となると。   で、その獲得を目指す大志を〈不貪慾戒・不瞋恚戒・不愚癡無明戒〉というところまでは達観できていた、と。固より、達観できたからといって実践できる保証などありはしない因縁ですが。
  小生、年を経れば、「短気な怒りっぽさ」は少しは緩和されるかと期待していたのですが、現実はその逆で、ますます酷くなる己のオコリッポサに辟易としています。そんな自分の実相を、世間様や赤の他人様に隠すことは他愛もない訳ですが、身近な他者つまり身内人に向けてしまうソレへの堪え性のなさは、酷い自己嫌悪を伴ってヒドイ身心の疲労を招きますから、…。そんな煩悩に亡くなるまで煩わされていた著名人の代表格がまさに夏目漱石その人だったということらしいですが。
  とまあ。また長くなってしまいました。御免下さい。
  文遊理道樂遊民洞 呟く  2015,4,14 19:17
返信する
ありがとうございました (ヤジュル様(鈴木))
2015-04-15 15:26:21
ヤジュル 様
 今日は。ご返事遅れて申し訳ございません。
 フルネームのご教示ありがとうございました。彼らの“名”については全然知りませんでした。
 なお、この時の一行の集合写真が人首文庫にたしか掲示してあったはずですので、次回機会があれば確認してみたいと思っております。
                                                               鈴木守
返信する
考えあぐねた賢治 (辛様へ(鈴木))
2015-04-15 17:27:52
辛 文則 様
 お晩でございます。今回のコメント「権威主義への反骨の痛快さ」ありがとうございました。そして、ご返事遅れて申し訳ございません。
 とは言いつつ、お応えできることは殆どございません。ご免なさい。私には、辛さんのこの度の御高論は難しすぎる内容だからです。

 ただ一つ「白鳥・犬田両著名詩人との面接ドタキャン事件」についてですが、仰るとおり、
 「二人からの面談申込み」に対けて、一度はOKの返事を送り、「考えあぐねた挙句、直前になってのドタキャンを千葉恭に委ねた」という経緯と推論できそうですね。
と私も認識しております。
 なおその際に、賢治はどう「考えあぐねた」のか、それを私は探りたいと思い立ってこのような拙論をぐだぐだと今回投稿している次第です。一般に、この訪問謝絶は白鳥省吾に対してだったと巷間言われているようですがそうとも言い切れず、それよりは犬田卯、あるいは佐伯郁郎に対してであったということの可能性を探ってみたいと思っております。

 というわけで、大した「応え」になりませんでしたが、今回はこれでお許しください。
                                                              鈴木 守

返信する
この問題、意外に一大事と存じます。 (辛文則)
2015-04-15 20:22:00
    鈴木守様
  ぶしつけながら申しあげます。「著名詩人からの会いたい」を拒絶するに至った「賢治という一個人モナド」の「真相なる深層の心理」、それも「末那識ではなくその奥の阿頼耶識」という「難有い問題」は思いの外、一大事なのではないか、などと。始めての自費出版本を「敬愛する心ある人人に味読して貰いたい」という欲望の熾烈さや如何なるかは、…。その視点で、『森佐一への手紙』を読めば。小生の心象では、野市森佐一は惣一時代、さらには荘己池時代になっても賢治メッセージを深く受け止め得てはいなかったのではないか、などと書いたなら傲慢の誹りは免れないんでしょうかしらん、…。
   尚、佐伯郁郎氏とは、その最晩年期に、『白堊校百年史』編纂に関わる会合やら創立百周年事業に関する会合の席で何度かお見かけしその話し方の口調を記憶しています。一言でいうと、「気高い老翁」といった心象でした。何人かの声高な老大先輩人たちの中で際立っていました。
   石田師が引用した佐伯氏の書いたものに、「僕らの頃は、忠実自彊・質実剛健より不羈奔放・自主独往を愛する連中が少なくなかった。」といった文があったとか。佐伯翁は大正九年卒ですから、大正デモクラット・大正生命教養主義が勃興した時節の白堊校生生ですね。舟越保武師にも、「僕やシュンちゃんは、大正生命主義の申し子なんですよ」と云う言があります。吉野作造や、白樺派藝術運動への憧れや、その挫折、とりわけ有島武郎の自死に深いショックを受けた人人が多かった筈です。たとえば、賢治がそのヒドリだったと想定して遊戯するは如何。
   有島兄弟は、豪農の倅であり、武郎は札幌農学校時代には、稲造の私宅の書生となり、稲造が創設した〈遠友夜学校〉の教壇に主として立ち、高村光太郎や武者小路実篤を迎えたのでした。稲造の紹介で内村鑑三の無教会派基督教者になり、漱石の木曜会にも加わった訳ですが、例の事件で鑑三に破門されているというのは、…。
   関東大地震の直前に私有農地を小作農に無償開放した後の〈情死型自死〉でしたから、…。後藤新平の孫で中学生時代に自殺未遂経験を持つ鶴見俊輔が、その息子に「自死するや如何?」と問われ、「徴兵され他殺や強姦をせざるを得ないことを自分に許せないのなら自殺も息むを得ない。」と即座に応えたというエピソードを読んで、「流石は筋金入りの九条の会人」と感心したものでした、が。
   例によって、ハナシがアチ東風、ソチ東風に飛び火道草しましたが、「明治末期から大正期を経歴した昭和前期」という時代を鳥瞰する視座から賢治のささやか試みを、……。「好戦的権力慾の気層による人災」を「天然自然の気層による天災」の如くに語る〈ヤンキー的反知性者〉の科白が持て囃される時代の再来を肌で感じざるを得なくなって、……。「莫忘紫苑の花びらの心意気」を、〈青い照明阿修羅〉に重ねて遊化遊読するというのは、……。
       文遊理道樂遊民洞の遊ぶ  2015,4,15
返信する
ご教示・ご指摘ありがとうございます (辛様(鈴木))
2015-04-16 07:44:04
辛 文則 様
 お早うございます。いつもありがとうございます。
 そして、「この問題、意外に一大事」というご指摘ありがとうございます。
 私はついつい、この突然の訪問謝絶は、関登久也が賢治に関して

 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすつかり忘れてしまつたやうに、また別の新しい計画を立てたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあつた。

と述懐しているところの、それこそ私から見れば「不羈奔放」なる賢治の面目躍如かなと素朴に思っておりました。
 そして、『新校本年譜』等には大正15年のこととして、『六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く』とありますが、肝心の堀尾自身が別のところで実はこれは確たる根拠もなく単なる推測に過ぎないということをばらしておりますので、私は賢治が訪問をドタキャンした頃はまだそれはそれが未完成であった可能性もあると考えておりました。
 といいますのは、私は、賢治が面会を謝絶した理由はどちらかというと白鳥省吾の方にではなくて、犬田卯(佐伯郁郎も含む)の方によりあったのではなかろうかと思うようになってきているからです。もう少し具体的に申しますと、その謝絶の理由は、『農民文芸十六講』を発行してその中で農民文芸の理論を構築して公にしようとしていた犬田卯(あるいは「農民文芸会」)に対して、同様に自身も農民芸術に関する理論を構築しようとしていた賢治としてはその影響を受けるのを嫌がったためであり、そのような動きがあることを直前に知った賢治は急遽面会を謝絶した可能性があったのではなかろうか、とです。
 なお、なぜ直前にそのような動きがあったということを賢治は知り得たかというと、犬田と賢治は、あるいは、佐伯と賢治は宮澤安太郎等を通じて繋がっていたからです。ちなみに、佐伯はこの安太郎を経由して賢治から『春と修羅』を貰ってもおります。

 ところが、今回辛さんから

 「著名詩人からの会いたい」を拒絶するに至った「賢治という一個人モナド」の「真相なる深層の心理」、それも「末那識ではなくその奥の阿頼耶識」という「難有い問題」は思いの外、一大事なのではないか、などと。始めての自費出版本を「敬愛する心ある人人に味読して貰いたい」という欲望の熾烈さや如何なるかは、…。その視点で、『森佐一への手紙』を読めば。小生の心象では、野市森佐一は惣一時代、さらには荘己池時代になっても賢治メッセージを深く受け止め得てはいなかったのではないか、などと書いたなら傲慢の誹りは免れないんでしょうかしらん、…。

ということを教わりましたので、辛さんのようなハイレベルな論考は私にはできませんが、もう少し慎重に考えることだけは私に必要だと今は思っております。
 なお今出典を探しているところですが、森荘已池は賢治に対してこの時に、

 白鳥等と会う必要などない、と言ってやった。だから賢治は彼らと会わなかったであろう。

というような意味のことを何かに書いていたはずです。

 最後に、辛さんから

 佐伯郁郎氏とは、その最晩年期に、『白堊校百年史』編纂に関わる会合やら創立百周年事業に関する会合の席で何度かお見かけしその話し方の口調を記憶しています。一言でいうと、「気高い老翁」といった心象でした。何人かの声高な老大先輩人たちの中で際立っていました。

ということを教わって、佐伯郁郎はさもありなんと思いましたし、

 佐伯の「僕らの頃は、忠実自彊・質実剛健より不羈奔放・自主独往を愛する連中が少なくなかった。」

とか

 舟越保武師にも、「僕やシュンちゃんは、大正生命主義の申し子なんですよ」

とか言っていたということもまた教わり、ますます郁郎に敬意を表したくなりました。

 ちなみに、佐伯郁郎は江戸時代の人首城主沼辺家の家老職のを勤めたという米里村人首の佐伯家の出であり、いまでも往時の面影を残す屋敷が残っていて、その屋敷内の蔵が『人首文庫』として、そこには郁郎に関する多くの貴重な資料等が展示・所蔵されております。お陰様で、この次に訪れる機会があれば、もう少し違った視点から郁郎を見ることができるかもしれません。感謝いたします。
                                                              鈴木 守


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