みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験〈奇矯な言動があったが故に?〉

2019-02-20 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

 では、ここからは思考実験に切り替える。それは、ちゑと賢治の見合いが昭和2年10月であったとなれば、露との関連で、あることの蓋然性が高まるからである。

 巷間、賢治は高瀬露を拒絶するために幾つかの奇矯な言動をしていたといわれている。しかも、昭和2年10月に見合いのためにちゑが花巻を訪れたとなれば、当然それ以前に見合いの話は既に進んでいたと考えられる。すると、この時間的な流れのタイミングがあまりにも合いすぎているので、普通に考えて、
 昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていた〈*1〉ということだから、賢治はちゑとの見合い話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するためにそのような奇矯な言動をするようになった。
ということの蓋然性が高い。
 ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
 大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
             <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>
というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
   私は(伊藤ちゑさんと)結婚するかも知れません――
とほのめかし、ちゑのことを
   ずつと前に私と話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。
            <共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)104p~>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを当時真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言えそうだ。

 ちょうどその頃のちゑは、二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていて、まるで聖女の如き女性であり、しかもモダーンでかなりの美人でもあったということだから、東京に住むそのようなちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もないとも考えられる。
 しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合いのために花巻に一度は行ったものの〈*2〉、先に〝伊藤ちゑから見た賢治〟で明らかにしたように、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になってやっと初めて覚ったと考えられる(まさに昭和6年10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒だったのかもしれない)。
 とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為等を恥じ、昭和7年に露に詫びに行ったようで、賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがあるという意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという。このことについては、露の遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人菊地忠一氏から教わった(平成26年7月14日、遠野市)ことであり、彼は、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると語っていた。(これらの詳細については拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい)。
 またもちろん、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったとしても、賢治は露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共になかろう。それは、賢治は露とは少なくともある一定期間オープンでとてもよい関係にあったし、なにしろ賢治は露からいろいろと世話になっていたからである。だからそうではなくて、賢治周辺の誰かが、賢治のために良かれと思って露を〈悪女〉に仕立てたのだろうが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めてしまったという、到底許されざる行為があったということなのだろう。

 おそらくその「誰か」が、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像にはそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。
 あるいは、父政次郎からも厳しく叱責されたという賢治のその幾つかの奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない〈悪女〉に仕立てるしかなかったのである。だから、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で露は犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪だ。

  どうも、奇矯な言動があったが故に起こったでっち上げだったという可能性も否定できない。

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 以上で思考実験は終了。続きは次回へ。

〈*1:註〉次のような、菊池映一氏の証言があるという。
 露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表われているのが感じられた。
             <『七尾論叢11号』所収「「宮澤賢治伝」の再検証(二)(上田哲著)」10pより>
〈*2:註〉森荘已池に宛てた昭和16年1月29日付ちゑ書簡に、
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
とある。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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