みちのくの山野草

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昭和7年、賢治遠野へ露を訪ねる?

2019-02-12 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

吉田 では、肝心の「聞き込みたる」「若しや旧名高瀬女史の件」についてだ。
荒木 あれっいま気付いたのだが、「旧名高瀬女史」と賢治が表現しているから、この書簡下書の日付である昭和7年6月22日頃には賢治は露が結婚したということを知っていたということにはなるのだろうが、露の新しい姓は知らなかったのかな?
吉田 案外な。…でも待てよ、あの澤里武治が昭和7年の3月末に上郷小学校を去って高等師範に入ったのと、露がその上郷小学校に着任したのは入れ違いではあるけれども、なにしろ武治が養子縁組をした澤里家と露の嫁ぎ先の小笠原家は一本の道路を挟んで筋向かいだからな、露が小笠原家に嫁いだということを賢治が知らない訳が無いか。あれだけ書簡のやりとりを頻繁にしていた賢治と武治なのだからな。
荒木 しかも、下根子桜時代に武治は賢治の許を幾十回となく訪ねていたという(『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)70p)ことだから、露のことは知らないはずがなかろうからな。
鈴木 そうそう「訪ねていた」といえば、この度一般には知られておらずしかもとても有力な「訪ねていた」情報を知った。
 実は過日、遠野市在住のAという方が私のところに訪ねて来られたのだが、私はその時に不在だったために会えなかったということがあった。そこでA氏は拙宅の郵便受けに、「露先生の教え子です」というメモを書いたご自分の名刺を入れて帰られた。もちろん、私は押っ取り刀で遠野市の同氏宅を訪問した。
 すると同氏からは、
 恩師のあの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを最近になって初めて知り、今はびっくりしている。決してそのような先生ではないのでそのことを知ってもらいたく、先日鈴木さんをお訪ねしたのです。
と言われた。そして、
・同氏の家と露先生の家は近かったから、露先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
 母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教わった(平成26年7月14日)。
吉田 じゃじゃじゃ、凄いじゃないか。なんと、遠野に嫁いだ露を賢治がわざわざ訪ねていたいうのか。確かにこれは初耳だ。ところでこの遠野訪問時期だけど、それは何年のことだと言ってた?
鈴木 それははっきりは判らないと言っていた。とはいっても、露が遠野に嫁いで行ったのは昭和7年の春で、賢治が亡くなったのが昭和8年9月だから、少なくともそれは昭和7年か8年かのどちらかの年となるだろ。そして、どちらかといえば昭和7年だろう。「賢治年譜」等からは、昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだが、昭和8年はほぼそうとは言えなさそうだからな。
荒木 いやそうであったとするならば、「どちらかといえば」ではなくて、ほぼ間違いなく昭和7年だべ。
鈴木 なんでまた?
荒木 だって、さっき引用した関登久也の追想「面影」の中に、「亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました」とあったじゃないか。となれば、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだ」ではなくて、同年のある時、賢治は「病氣がひとまづ良くなつて」実際関の家に「一應の了解を求めに來た」と関がそう証言していることになるのだから、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられた時期もあった」ということだべ。
鈴木 あっそうだよな、一本取られた。確かに荒木の言うとおりで、
 賢治が遠野の露に会いに来ていた」という意味の露本人の証言があり、それはほぼ昭和7年のことであった。
ということか。
吉田 するとこれは凄いことが起こりそうだぞ。露本人が次女に話した「賢治が遠野の露に会いに来ていた」という意味のこの証言で全てが皆繋るんじゃないかな。
荒木 へえ~どんなふうにだ。
吉田 とは言っても、これから話すことは一部推測部分もあるので「思考実験」だからそのつもりで聞いてほしいのだが、他でもない「聞き込みたる」「若しや旧名高瀬女史の件」とはこの証言に関する風聞のことだったのだよ。おそらく。
鈴木 あっそうか、
    「聞き込みたる」「若しや旧名高瀬女史の件」=「賢治が遠野に嫁いだ露を訪ねて来た」という風聞
という等式が成立する可能性が大ということか。
荒木 そうか。おそらく昭和7年に、賢治が遠野に露を訪ねて来たことに関するよからぬ「風聞」が広まっていたのだべ。
鈴木 知ってのとおり、露が嫁いだ小笠原家といえば遠野南部の名家中の名家だ。その名家に嫁いだばかりの露の許に、あろうことか三十半ば過ぎの男性がわざわざ訪ねて行ったのだ。普通そんなことをしたら誰だって訝しく思うだろう。
吉田 おそらく一方で、このような事柄に対しては無頓着だと思われる性向がある賢治のことだから、しかも小笠原家の家格のこともさらにあって、そのことがたちまち周辺にスキャンダルとなって広まってしまったのだろう。
荒木 確かにな。もしこの賢治の遠野訪問が事実であったとしたならば、結婚したばかりの露のところへ周りから見れば怪しげな風体の中年男が訪ねて来たのだから、小笠原の家柄のこともありその訪問はたちまちスキャンダルになった可能性大だ。となれば、おそらく賢治のそのような行為は周りから顰蹙を買っただろうから、それは良からぬ「噂話」となって遠野どころかたちまち花巻にも伝わって来ただろう。
吉田 そしてその頃であれば、遠野出身の佐々木喜善は昭和7年4月~5月、エスペラント講習会を開くために花巻に滞在していた時があるから、そのスキャンダルは情報通であったであろう喜善の知るところとなった可能性は極めて大。
 しかも、先ほどの中舘宛書簡下書〔422a〕には「新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり」とも書かれていることから、中舘と喜善とは親交があったと考えられる。
鈴木 実はこんなこともある。この中舘は大正15年8月18日及び同22日に『岩手日報』に「霧多布の海」というタイトルの随筆を寄稿していて、その22日分の中で、
 わたしは實に淋しい人である。この淋し味を慰めて鞭撻してくれるのは友人諸君である。花卷の佐藤金治君からは多年骨肉も及ばぬほどの應援を受けて來た。
             <大正15年8月22日付『岩手日報』四面より>
というように佐藤金治とも親交が深かったとを述べている。
 そしてもちろんこの佐藤金治とは、例の賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人であり、その中でも一番成績のよかったという級長の佐藤金治その人のことだろう。もちろんその他の二人のうちの一人が宮澤賢治であり、もう一人が小田嶋秀治だ。
荒木 そうそう秀才の「三治」って聞いたことがある。そしてその金治の家は賢治の家の一軒おいて隣だったはずだから、金治から「多年骨肉も及ばぬほどの應援を受け」というほどに親密であった中舘であれば、その金治から賢治のことについては結構情報を得ていた可能性があるぞ。
鈴木 というわけで、賢治は中舘に対して「新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることあり」と皮肉ってはいるものの、実は中舘はそんな「岡つ引き」のするような「聞き込み」などをせずとも、これらのいずれかのルートを通じてこの「風聞」が中舘の知るところとなった可能性も大だ。
吉田 そして、先に引用した山内修氏が「賢治の病気の原因が…女性との関係にあるというような内容の手紙」と言うところのこの「内容」とは、まさにこの「風聞」を意味している可能性が大であり、なおかつその「風聞」は、賢治の中舘宛下書稿〔422a〕に認めてられている「心配の何か小生身辺の事」におそらく対応していたのだろう。
鈴木 まさしく。それゆえ、賢治は「別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」というようにとぼけ、露との間には何も特別のことはありません「普通の訪客として遇したるのみに」と弁明し、返す刀で
 憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき…何分の慎重なる御用意を切に奉仰候
とか、
 新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることあり…この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。
とこれまた辛辣な言葉を連ねて中舘に逆襲した。
荒木 逆に言えば、やはりこの「風聞」はかなり周囲から顰蹙を買っていたものだったということが導かれる、ということか。
吉田 つまり賢治は痛いところを中舘から突かれたから怒り心頭に発し、辛辣に「岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝」と締めくくって、逆襲しようとしたのだ。
 これで思考実験は終了。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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