みちのくの山野草

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一次情報に立ち返れ(『原稿ノート』)

2019-04-27 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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9 一次情報に立ち返れ
吉田 それは一次情報、あるいは一次資料ともいわれるものに立ち返れ、ということだ。ほら、鈴木が以前何度か取り上げていた、石井洋二郎教授があの式辞の中で警鐘を鳴らしていたあれだよ。
鈴木 平成27年3月、ある大学の卒業式で学部長の石井洋二郎氏は次のようなことを式辞の中で述べ
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
と危惧し、それを防ぐために、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。<「東京大学大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞(東京大学教養学部長石井洋二郎)より>
と警鐘を鳴らし、卒業生に訓辞を述べたというのだが、この「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」のいうところの「一次情報に立ち返って」のことだろう。
吉田 そう、それだ。
荒木 思い出した、そういえば鈴木はこの式辞にいたく感動していたっけ。
荒木 だって、そうすることによって賢治の真実を自分で見つけることができたからさ。 
吉田 そういう意味では、鈴木はまさにこの件に関してもそうだが、「一次情報に立ち返って」いると言える。
鈴木 まあ、たまたま上手くいっただけのことだけどね。
 そ一次情報の一つが、この場合の『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』だ。ちなみに、このノートの冒頭1p~3pに書かれていたのが件の武治の証言、
        三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 …(投稿者略)…そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也著『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
だ。そして、これがその『原稿ノート』のコピーだ。
【『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』の1p】

【 〃 2p】

【 〃 3p】

〈共に、関登久也著『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
荒木 どれどれ、ちょっと読みにくいが……確かにそう書いてある。
    確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。
とも、
    其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。
ということも、
    「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険だ少くとも三ヶ月は滞京する
とも、そして、
    そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
ということもだ。
吉田 それにしてもよくこのノートを見つけたな。鈴木がかなりしつこいということは知っていたけれども。
鈴木 それはさ、私の恩師にあることを頼まれて恩師の知人宅にお邪魔したことがあるのだが、それが関登久也の息子さん、岩田有史先生のお宅だったのだ。それでその後何度かお邪魔した際に、「父の原稿等が「日本現代詩歌文学館」に東京の古書店から寄贈されております」と教わったので、有史先生に許可を貰って見せて貰ったのさ。
吉田 まあそこまでは、つまりこの場合の一次情報の『原稿ノート』に迄辿り着くところまでは、普通の研究家であってもなかなか難しいとはしても、この証言の初出にまでは比較的容易に辿り着けるだろうに。何でそれさえもせんのかな。
荒木 ???
鈴木 それに関連しては、先に〝大正15年12月2日の「現定説」〟で詳しく述べたところだが、簡潔に並べてみると、
⑴ 『續 宮澤賢治素描』(関登久也著)の『原稿ノート』(昭和19年3月8日頃作成)
⑵ この証言の初出は『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年)<*3>
⑶ 次が、新聞連載の関登久也著「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)
⑷ この新聞連載が単行本化された『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
⑸ 〝関『随聞』二一五頁〟の『随聞』は『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年)
となる。どうだ荒木、変だと思わんか。
荒木 ……う~む……、あっそっか。これだけの関連資料があるというのに、なんで『新校本年譜』は、
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
というよう奇妙な言い訳もどきをして、実質的には〝⑸〟を典拠にしている、ということが変だ。よりによって年代順に言って一番最後の資料を典拠にするっていうことは、石井洋二郎先生の「一次情報に立ち返れ」と真逆の行為だからな。
吉田 しかも、この〝⑸〟は関登久也本人が著したものではない<*1>。また、〝⑷〟は著者である関以外の何者かによって澤里武治の証言が一部改竄されている<*2>、ということを鈴木はそれぞれ明らかにした。だから、この〝⑷〟や〝⑸〟は信頼性に欠ける資料であり、論考等に於いては典拠として使えんだろう。
荒木 それはそうだが、それ以前に、そもそもこんな場合に典拠とするべきは一次情報の〝⑴〟、それは無理としても初出の〝⑵〟、百方譲って〝⑶〟だということべ。
吉田 そう、その通り。こんな場合には、石井洋二郎教授の戒め「あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」に従って、この〝⑴〟あるいはせめて〝⑵〟に立ち返って、「自分の頭と足で検証してみること」が不可欠だ。
荒木 そしてこれらに従えば、下掲の《表2》に、例の「三か月間」がすっぽりとあてはまるのだから、

澤里武治の証言は何一つ矛盾も生じない。
 ならば、どうして現実はこうなっていないのだうか。あろうことか、改竄等までしてだぞ。
吉田 だから、そこには何かやましいことでもあるのではないですか、と疑われてもしょうがないということだ。
鈴木 そうか、彼等が「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」をまさかしていない、なんてことはあろうはずがないからな。
吉田 それって、彼等に対する皮肉か?
鈴木 いやいやそんな、滅相もない。

<*1:投稿者註> 『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)31p~
<*2:投稿者註> 『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)35p~
<*3:投稿者註> 『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)33p~

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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